まだかの女のこの世にあることをも夢にも知らなかった頃であったが、その頃から渠は淋《さび》しい人であった。敢てヨハンネスにその身を比そうとは為《し》なかったが、アンナのような女がもしあったなら、そういう悲劇《トラジディ》に陥るのは当然だとしみじみ同情した。今はそのヨハンネスにさえなれぬ身だと思って長嘆した。
さすがに「寂しき人々」をかの女に教えなかったが、ツルゲネーフの「ファースト」という短篇を教えたことがあった。洋燈《ランプ》の光|明《あきら》かなる四畳半の書斎、かの女の若々しい心は色彩ある恋物語に憧《あこが》れ渡って、表情ある眼は更に深い深い意味を以《もっ》て輝きわたった。ハイカラな庇髪《ひさしがみ》、櫛《くし》、リボン、洋燈の光線がその半身を照して、一巻の書籍に顔を近く寄せると、言うに言われぬ香水のかおり、肉のかおり、女のかおり――書中の主人公が昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる段を講釈する時には男の声も烈しく戦《ふる》えた。
「けれど、もう駄目だ!」
と、渠は再び頭髪《かみ》をむしった。
二
渠《かれ》は名を竹中時雄と謂《い》った。
今より三年前
前へ
次へ
全105ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング