。机、本箱、罎《びん》、紅皿《べにざら》、依然として元のままで、恋しい人はいつもの様に学校に行っているのではないかと思われる。時雄は机の抽斗《ひきだし》を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂《にお》いを嗅《か》いだ。暫《しばら》くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡《から》げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団《ふとん》――萌黄唐草《もえぎからくさ》の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟《えり》の天鵞絨《びろうど》の際立《きわだ》って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅《か》いだ。
 性慾と悲哀と絶望とが忽《たちま》ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。
 薄暗い一室、戸外には風が吹暴《ふきあ》れていた。



底本:「蒲団・重右衛門の最後」新潮文庫、新潮社
   1952(昭和27)年3月15
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