。であるのに再び寂寞《せきばく》荒涼たる以前の平凡なる生活にかえらなければならぬとは……。不平よりも、嫉妬《しっと》よりも、熱い熱い涙がかれの頬《ほお》を伝った。
かれは真面目に芳子の恋とその一生とを考えた。二人|同棲《どうせい》して後の倦怠《けんたい》、疲労、冷酷を自己の経験に照らしてみた。そして一たび男子に身を任せて後の女子の境遇の憐《あわれ》むべきを思い遣《や》った。自然の最奥《さいおう》に秘める暗黒なる力に対する厭世《えんせい》の情は今彼の胸を簇々《むらむら》として襲った。
真面目なる解決を施さなければならぬという気になった。今までの自分の行為《おこない》の甚《はなは》だ不自然で不真面目であるのに思いついた。時雄はその夜、備中の山中にある芳子の父母に寄する手紙を熱心に書いた。芳子の手紙をその中に巻込んで、二人の近況を詳しく記し、最後に、
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父たる貴下と師たる小生と当事者たる二人と相対して、此《こ》の問題を真面目に議すべき時節到来せりと存候《ぞんじそうろう》、貴下は父としての主張あるべく、芳子は芳子としての自由あるべく、小生また師としての意見|有之《これあり》候、御多忙の際には有之候えども、是非々々御出京下され度《たく》、幾重にも希望|仕《つかまつり》候。
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と書いて筆を結んだ。封筒に収めて備中国|新見町《にいみまち》横山兵蔵様と書いて、傍に置いて、じっとそれを見入った。この一通が運命の手だと思った。思いきって婢《おんな》を呼んで渡した。
一日二日、時雄はその手紙の備中の山中に運ばれて行くさまを想像した。四面山で囲まれた小さな田舎町《いなかまち》、その中央にある大きな白壁造、そこに郵便脚夫が配達すると、店に居た男がそれを奥へ持って行く。丈《たけ》の高い、髯《ひげ》のある主人がそれを読む――運命の力は一刻毎に迫って来た。
八
十日に時雄は東京に帰った。
その翌日、備中から返事があって、二三日の中に父親が出発すると報じて来た。
芳子も田中も今の際、寧《むし》ろそれを希望しているらしく、別にこれと云って驚いた様子も無かった。
父親が東京に着いて、先《ま》ず京橋に宿を取って、牛込の時雄の宅を訪問したのは十六日の午前十一時頃であった。丁度日曜で、時雄は宅に居た。父親はフロックコートを着て、中高帽を冠《かぶ》って、長途の旅行に疲れたという風であった。
芳子はその日医師へ行っていた。三日程前から風邪《かぜ》を引いて、熱が少しあった。頭痛がすると言っていた。間もなく帰って来たが、裏口から何の気なしに入ると、細君が、「芳子さん、芳子さん、大変よ、お父さんが来てよ」
「お父さん」
と芳子もさすがにはっとした。
そのまま二階に上ったが下りて来ない。
奥で、「芳子は?」と呼ぶので、細君が下から呼んでみたが返事がない。登って行って見ると、芳子は机の上に打伏《うつぶ》している。
「芳子さん」
返事が無い。
傍に行って又呼ぶと、芳子は青い神経性の顔を擡《もた》げた。
「奥で呼んでいますよ」
「でもね、奥さん、私はどうして父に逢《あ》われるでしょう」
泣いているのだ。
「だッて、父様に久し振じゃありませんか。どうせ逢わないわけには行かんのですもの。何アにそんな心配をすることはありませんよ、大丈夫ですよ」
「だッて、奥さん」
「本当に大丈夫ですから、しっかりなさいよ、よくあなたの心を父様にお話しなさいよ。本当に大丈夫ですよ」
芳子は遂に父親の前に出た。鬚《ひげ》多く、威厳のある中に何処《どこ》となく優しいところのある懐《なつ》かしい顔を見ると、芳子は涙の漲《みなぎ》るのを禁《とど》め得なかった。旧式な頑固《がんこ》な爺《おやじ》、若いものの心などの解らぬ爺、それでもこの父は優しい父であった。母親は万事に気が附いて、よく面倒を見てくれたけれど、何故か芳子には母よりもこの父の方が好かった。その身の今の窮迫を訴え、泣いてこの恋の真面目なのを訴えたら父親もよもや動かされぬことはあるまいと思った。
「芳子、暫《しばら》くじゃッたのう……体は丈夫かの?」
「お父さま……」芳子は後を言い得なかった。
「今度来ます時に……」と父親は傍に坐っている時雄に語った。「佐野と御殿場でしたかナ、汽車に故障がありましてナ、二時間ほど待ちました。機関が破裂しましてナ」
「それは……」
「全速力で進行している中に、凄《すさま》じい音がしたと思いましたけえ、汽車が夥《おびただ》しく傾斜してだらだらと逆行しましてナ、何事かと思いました。機関が破裂して火夫が二人とか即死した……」
「それは危険でしたナ」
「沼津から機関車を持って来てつけるまで二時間も待ちましたけえ、その間もナ、思いまして……これ
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