書を展《ひら》いて、深くその事を考えていた。その手紙は今少し前、旅館の下女が置いて行った芳子の筆である。
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先生、
まことに、申訳が御座いません。先生の同情ある御恩は決して一生|経《た》っても忘るることでなく、今もそのお心を思うと、涙が滴《こぼ》るるのです。
父母はあの通りです。先生があのように仰《おっ》しゃって下すっても、旧風《むかしふう》の頑固《かたくな》で、私共の心を汲《く》んでくれようとも致しませず、泣いて訴えましたけれど、許してくれません。母の手紙を見れば泣かずにはおられませんけれど、少しは私の心も汲んでくれても好いと思います。恋とはこう苦しいものかと今つくづく思い当りました。先生、私は決心致しました。聖書にも女は親に離れて夫に従うと御座います通り、私は田中に従おうと存じます。
田中は未《いま》だに生活のたつきを得ませず、準備した金は既に尽き、昨年の暮れは、うらぶれの悲しい生活を送ったので御座います。私はもう見ているに忍びません。国からの補助を受けませんでも、私等は私等二人で出来るまでこの世に生きてみようと思います。先生に御心配を懸けるのは、まことに済みません。監督上、御心配なさるのも御尤《ごもっと》もです。けれど折角先生があのように私等の為めに国の父母をお説き下すったにも係《かかわ》らず、父母は唯無意味に怒ってばかりいて、取合ってくれませんのは、余りと申せば無慈悲です、勘当《かんどう》されても為方《しかた》が御座いません。堕落々々と申して、殆《ほとん》ど歯《よわい》せぬばかりに申しておりますが、私達の恋はそんなに不真面目《ふまじめ》なもので御座いましょうか。それに、家の門地々々と申しますが、私は恋を父母の都合によって致すような旧式の女でないことは先生もお許し下さるでしょう。
先生、
私は決心致しました。昨日上野図書館で女の見習生が入用だという広告がありましたから、応じてみようと思います。二人して一生懸命に働きましたら、まさかに餓《う》えるようなことも御座いますまい。先生のお家にこうして居ますればこそ、先生にも奥様にも御心配を懸けて済まぬので御座います。どうか先生、私の決心をお許し下さい。
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[#地から2字上げ]芳子
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先生 おんもとへ
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 恋の力は遂に二人を深い惑溺《わくでき》の淵《ふち》に沈めたのである。時雄はもうこうしてはおかれぬと思った。時雄が芳子の歓心を得る為めに取った「温情の保護者」としての態度を考えた。備中の父親に寄せた手紙、その手紙には、極力二人の恋を庇保《ひほ》して、どうしてもこの恋を許して貰《もら》わねばならぬという主旨であった。時雄は父母の到底これを承知せぬことを知っていた。寧《むし》ろ父母の極力反対することを希望していた。父母は果して極力反対して来た。言うことを聞かぬなら勘当するとまで言って来た。二人はまさに受くべき恋の報酬を受けた。時雄は芳子の為めに飽《あく》まで弁明し、汚れた目的の為めに行われたる恋でないことを言い、父母の中一人、是非出京してこの問題を解決して貰いたいと言い送った。けれど故郷の父母は、監督なる時雄がそういう主張であるのと、到底その口から許可することが出来ぬのとで、上京しても無駄であると云って出て来なかった。
 時雄は今、芳子の手紙に対して考えた。
 二人の状態は最早一刻も猶予すべからざるものとなっている。時雄の監督を離れて二人一緒に暮したいという大胆な言葉、その言葉の中には警戒すべき分子の多いのを思った。いや、既に一歩を進めているかも知れぬと思った。又一面にはこれほどその為めに尽力しているのに、その好意を無にして、こういう決心をするとは義理知らず、情知らず、勝手にするが好いとまで激した。
 時雄は胸の轟《とどろ》きを静める為め、月|朧《おぼろ》なる利根川の堤の上を散歩した。月が暈《かさ》を帯びた夜は冬ながらやや暖かく、土手下の家々の窓には平和な燈火が静かに輝いていた。川の上には薄い靄《もや》が懸って、おりおり通る船の艫《ろ》の音がギイと聞える。下流でおーいと渡しを呼ぶものがある。舟橋を渡る車の音がとどろに響いてそして又一時静かになる。時雄は土手を歩きながら種々のことを考えた。芳子のことよりは一層痛切に自己の家庭のさびしさということが胸を往来した。三十五六歳の男女の最も味《あじわ》うべき生活の苦痛、事業に対する煩悩《ぼんのう》、性慾より起る不満足等が凄《すさま》じい力でその胸を圧迫した。芳子はかれの為めに平凡なる生活の花でもあり又|糧《かて》でもあった。芳子の美しい力に由って、荒野の如《ごと》き胸に花咲き、錆《さ》び果てた鐘は再び鳴ろうとした。芳子の為めに、復活の活気は新しく鼓吹された
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