いた。二年、三年、男が同志社を卒業するまでは、たまさかの雁《かり》の音信《おとずれ》をたよりに、一心不乱に勉強しなければならぬと思った。で、午後からは、以前の如く麹町《こうじまち》の某英学塾に通い、時雄も小石川の社に通った。
時雄は夜などおりおり芳子を自分の書斎に呼んで、文学の話、小説の話、それから恋の話をすることがある。そして芳子の為めにその将来の注意を与えた。その時の態度は公平で、率直で、同情に富んでいて、決して泥酔して厠《かわや》に寝たり、地上に横たわったりした人とは思われない。さればと言って、時雄はわざとそういう態度にするのではない、女に対《むか》っている刹那《せつな》――その愛した女の歓心を得るには、いかなる犠牲も甚だ高価に過ぎなかった。
で、芳子は師を信頼した。時期が来て、父母にこの恋を告ぐる時、旧思想と新思想と衝突するようなことがあっても、この恵深い師の承認を得さえすればそれで沢山だとまで思った。
九月は十月になった。さびしい風が裏の森を鳴らして、空の色は深く碧《あお》く、日の光は透通《すきとお》った空気に射渡《さしわた》って、夕の影が濃くあたりを隈《くま》どるようになった。取り残した芋《いも》の葉に雨は終日|降頻《ふりしき》って、八百屋《やおや》の店には松茸《まつたけ》が並べられた。垣の虫の声は露に衰えて、庭の桐《きり》の葉も脆《もろ》くも落ちた。午前の中の一時間、九時より十時までを、ツルゲネーフの小説の解釈、芳子は師のかがやく眼の下に、机に斜《はす》に坐って、「オン、ゼ、イブ」の長い長い物語に耳を傾けた。エレネの感情に烈《はげ》しく意志の強い性格と、その悲しい悲壮なる末路とは如何《いか》にかの女を動かしたか。芳子はエレネの恋物語を自分に引くらべて、その身を小説の中に置いた。恋の運命、恋すべき人に恋する機会がなく、思いも懸けぬ人にその一生を任した運命、実際芳子の当時の心情そのままであった。須磨の浜で、ゆくりなく受取った百合《ゆり》の花の一葉の端書、それがこうした運命になろうとは夢にも思い知らなかったのである。
雨の森、闇の森、月の森に向って、芳子はさまざまにその事を思った。京都の夜汽車、嵯峨《さが》の月、膳所《ぜぜ》に遊んだ時には湖水に夕日が美しく射渡って、旅館の中庭に、萩《はぎ》が絵のように咲乱れていた。その二日の遊は実に夢のようであったと思った。続いてまだその人を恋せぬ前のこと、須磨の海水浴、故郷の山の中の月、病気にならぬ以前、殊《こと》にその時の煩悶《はんもん》を考えると、頬《ほお》がおのずから赧《あか》くなった。
空想から空想、その空想はいつか長い手紙となって京都に行った。京都からも殆《ほとん》ど隔日のように厚い厚い封書が届いた。書いても書いても尽くされぬ二人の情――余りその文通の頻繁《ひんぱん》なのに時雄は芳子の不在を窺《うかが》って、監督という口実の下にその良心を抑えて、こっそり机の抽出《ひきだし》やら文箱《ふばこ》やらをさがした。捜し出した二三通の男の手紙を走り読みに読んだ。
恋人のするような甘ったるい言葉は到る処に満ちていた。けれど時雄はそれ以上にある秘密を捜し出そうと苦心した。接吻《せっぷん》の痕《あと》、性慾の痕が何処かに顕《あら》われておりはせぬか。神聖なる恋以上に二人の間は進歩しておりはせぬか、けれど手紙にも解らぬのは恋のまことの消息であった。
一カ月は過ぎた。
ところが、ある日、時雄は芳子に宛てた一通の端書を受取った。英語で書いてある端書であった。何気なく読むと、一月ほどの生活費は準備して行く、あとは東京で衣食の職業が見附かるかどうかという意味、京都田中としてあった。時雄は胸を轟《とどろ》かした。平和は一時にして破れた。
晩餐《ばんさん》後、芳子はその事を問われたのである。
芳子は困ったという風で、「先生、本当に困って了《しま》ったんですの。田中が東京に出て来ると云うのですもの、私は二度、三度まで止めて遣ったんですけれど、何だか、宗教に従事して、虚偽に生活してることが、今度の動機で、すっかり厭《いや》になって了ったとか何とかで、どうしても東京に出て来るッて言うんですよ」
「東京に来て、何をするつもりなんだ?」
「文学を遣りたいと――」
「文学? 文学ッて、何だ。小説を書こうと言うのか」
「え、そうでしょう……」
「馬鹿な!」
と時雄は一|喝《かつ》した。
「本当に困って了うんですの」
「貴嬢《あなた》はそんなことを勧めたんじゃないか」
「いいえ」と烈しく首を振って、「私はそんなこと……私は今の場合困るから、せめて同志社だけでも卒業してくれッて、この間初めに申して来た時に達《た》って止めて遣ったんですけれど……もうすっかり独断でそうして了ったんですッて。今更取かえし
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