たけれど、芳子が低頭勝《うつむきがち》に悄然《しょうぜん》として後について来るのを見ると、何となく可哀《かわい》そうになって、胸に苛々《いらいら》する思を畳みながら、黙して歩いた。
 佐内坂を登り了《おわ》ると、人通りが少くなった。時雄はふと振返って、「それでどうしたの?」と突如として訊《たず》ねた。
「え?」
 反問した芳子は顔を曇らせた。
「昨日の話さ、まだ居るのかね」
「今夜の六時の急行で帰ります」
「それじゃ送って行かなくってはいけないじゃないか」
「いいえ、もう好いんですの」
 これで話は途絶えて、二人は黙って歩いた。
 矢来町の時雄の宅、今まで物置にしておいた二階の三畳と六畳、これを綺麗《きれい》に掃除して、芳子の住居《すまい》とした。久しく物置――子供の遊び場にしておいたので、塵埃《ちり》が山のように積っていたが、箒《ほうき》をかけ雑巾《ぞうきん》をかけ、雨のしみの附いた破れた障子を貼《は》り更えると、こうも変るものかと思われるほど明るくなって、裏の酒井の墓塋《はか》の大樹の繁茂《しげり》が心地よき空翠《みどり》をその一室に漲《みなぎ》らした。隣家の葡萄棚《ぶどうだな》、打捨てて手を入れようともせぬ庭の雑草の中に美人草の美しく交って咲いているのも今更に目につく。時雄はさる画家の描いた朝顔の幅《ふく》を選んで床に懸け、懸花瓶《けんかびん》には後《おく》れ咲《ざき》の薔薇《ばら》の花を※[#「插」のつくりの縦棒が下に突き抜ける、第4水準2−13−28]《さ》した。午頃《ひるごろ》に荷物が着いて、大きな支那鞄《しなかばん》、柳行李《やなぎごうり》、信玄袋、本箱、机、夜具、これを二階に運ぶのには中々骨が折れる。時雄はこの手伝いに一日社を休むべく余儀なくされたのである。
 机を南の窓の下、本箱をその左に、上に鏡やら紅皿《べにざら》やら罎《びん》やらを順序よく並べた。押入の一方には支那鞄、柳行李、更紗《さらさ》の蒲団《ふとん》夜具の一組を他の一方に入れようとした時、女の移香《うつりが》が鼻を撲《う》ったので、時雄は変な気になった。
 午後二時頃には一室が一先《ひとま》ず整頓《せいとん》した。
「どうです、此処《ここ》も居心は悪くないでしょう」時雄は得意そうに笑って、「此処に居て、まア緩《ゆっ》くり勉強するです。本当に実際問題に触れてつまらなく苦労したって為方がないですからねえ」
「え……」と芳子は頭を垂れた。
「後で詳しく聞きましょうが、今の中《うち》は二人共じっとして勉強していなくては、為方がないですからね」
「え……」と言って、芳子は顔を挙げて、「それで先生、私達もそう思って、今はお互に勉強して、将来に希望を持って、親の許諾《ゆるし》をも得たいと存じておりますの!」
「それが好いです。今、余り騒ぐと、人にも親にも誤解されて了って、折角の真面目な希望も遂げられなくなりますから」
「ですから、ね、先生、私は一心になって勉強しようと思いますの。田中もそう申しておりました。それから、先生に是非お目にかかってお礼を申上げなければ済まないと申しておりましたけれど……よく申上げてくれッて……」
「いや……」
 時雄は芳子の言葉の中に、「私共」と複数を遣《つか》うのと、もう公然|許嫁《いいなずけ》の約束でもしたかのように言うのとを不快に思った。まだ、十九か二十の妙齢の処女が、こうした言葉を口にするのを怪しんだ。時雄は時代の推移《おしうつ》ったのを今更のように感じた。当世の女学生|気質《かたぎ》のいかに自分等の恋した時代の処女気質と異っているかを思った。勿論《もちろん》、この女学生気質を時雄は主義の上、趣味の上から喜んで見ていたのは事実である。昔のような教育を受けては、到底今の明治の男子の妻としては立って行かれぬ。女子も立たねばならぬ、意志の力を十分に養わねばならぬとはかれの持論である。この持論をかれは芳子に向っても尠《すくな》からず鼓吹した。けれどこの新派のハイカラの実行を見てはさすがに眉《まゆ》を顰《ひそ》めずにはいられなかった。

 男からは国府津《こうづ》の消印で帰途に就《つ》いたという端書《はがき》が着いて翌日三番町の姉の家から届けて来た。居間の二階には芳子が居て、呼べば直ぐ返事をして下りて来る。食事には三度三度膳を並べて団欒《だんらん》して食う。夜は明るい洋燈《ランプ》を取巻いて、賑《にぎ》わしく面白く語り合う。靴下は編んでくれる。美しい笑顔を絶えず見せる。時雄は芳子を全く占領して、とにかく安心もし満足もした。細君も芳子に恋人があるのを知ってから、危険の念、不安の念を全く去った。
 芳子は恋人に別れるのが辛《つら》かった。成ろうことなら一緒に東京に居て、時々顔をも見、言葉をも交えたかった。けれど今の際それは出来難いことを知って
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