溺《わくでき》の淵《ふち》に沈めたのである。時雄はもうこうしてはおかれぬと思った。時雄が芳子の歓心を得る為めに取った「温情の保護者」としての態度を考えた。備中の父親に寄せた手紙、その手紙には、極力二人の恋を庇保《ひほ》して、どうしてもこの恋を許して貰《もら》わねばならぬという主旨であった。時雄は父母の到底これを承知せぬことを知っていた。寧《むし》ろ父母の極力反対することを希望していた。父母は果して極力反対して来た。言うことを聞かぬなら勘当するとまで言って来た。二人はまさに受くべき恋の報酬を受けた。時雄は芳子の為めに飽《あく》まで弁明し、汚れた目的の為めに行われたる恋でないことを言い、父母の中一人、是非出京してこの問題を解決して貰いたいと言い送った。けれど故郷の父母は、監督なる時雄がそういう主張であるのと、到底その口から許可することが出来ぬのとで、上京しても無駄であると云って出て来なかった。
 時雄は今、芳子の手紙に対して考えた。
 二人の状態は最早一刻も猶予すべからざるものとなっている。時雄の監督を離れて二人一緒に暮したいという大胆な言葉、その言葉の中には警戒すべき分子の多いのを思った。いや、既に一歩を進めているかも知れぬと思った。又一面にはこれほどその為めに尽力しているのに、その好意を無にして、こういう決心をするとは義理知らず、情知らず、勝手にするが好いとまで激した。
 時雄は胸の轟《とどろ》きを静める為め、月|朧《おぼろ》なる利根川の堤の上を散歩した。月が暈《かさ》を帯びた夜は冬ながらやや暖かく、土手下の家々の窓には平和な燈火が静かに輝いていた。川の上には薄い靄《もや》が懸って、おりおり通る船の艫《ろ》の音がギイと聞える。下流でおーいと渡しを呼ぶものがある。舟橋を渡る車の音がとどろに響いてそして又一時静かになる。時雄は土手を歩きながら種々のことを考えた。芳子のことよりは一層痛切に自己の家庭のさびしさということが胸を往来した。三十五六歳の男女の最も味《あじわ》うべき生活の苦痛、事業に対する煩悩《ぼんのう》、性慾より起る不満足等が凄《すさま》じい力でその胸を圧迫した。芳子はかれの為めに平凡なる生活の花でもあり又|糧《かて》でもあった。芳子の美しい力に由って、荒野の如《ごと》き胸に花咲き、錆《さ》び果てた鐘は再び鳴ろうとした。芳子の為めに、復活の活気は新しく鼓吹された
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