たばたと二階へ上った。すぐ下りて来るかと思うに、なかなか下りて来ない。「芳子さん、芳子さん」と三度ほど細君が呼ぶと、「はアーい」という長い返事が聞えて、矢張下りて来ない。お鶴が迎いに行って漸《ようや》く二階を下りて来たが、準備した夕飯の膳を他所《よそ》に、柱に近く、斜《はす》に坐った。
「御飯は?」
「もう食べたくないの、腹《おなか》が一杯で」
「余りおさつを召上った故《せい》でしょう」
「あら、まア、酷《ひど》い奥さん。いいわ、奥さん」
 と睨《にら》む真似《まね》をする。
 細君は笑って、
「芳子さん、何だか変ね」
「何故《なぜ》?」と長く引張る。
「何故でも無いわ」
「いいことよ、奥さん」
 と又睨んだ。
 時雄は黙ってこの嬌態《きょうたい》に対していた。胸の騒ぐのは無論である。不快の情はひしと押し寄せて来た。芳子はちらと時雄の顔を覗《うかが》ったが、その不機嫌《ふきげん》なのが一目で解った。で、すぐ態度を改めて、
「先生、今日田中が参りましてね」
「そうだってね」
「お目にかかってお礼を申上げなければならんのですけれども、又改めて上がりますからッて……よろしく申上げて……」
「そうか」
 と言ったが、そのままふいと立って書斎に入って了った。

 その恋人が東京に居ては、仮令《たとい》自分が芳子をその二階に置いて監督しても、時雄は心を安んずる暇はなかった。二人の相逢うことを妨げることは絶対に不可能である。手紙は無論差留めることは出来ぬし、「今日ちょっと田中に寄って参りますから、一時間遅くなります」と公然と断って行くのをどうこう言う訳には行かなかった。またその男が訪問して来るのを非常に不快に思うけれど、今更それを謝絶することも出来なかった。時雄はいつの間にか、この二人からその恋に対しての「温情の保護者」として認められて了った。
 時雄は常に苛々《いらいら》していた。書かなければならぬ原稿が幾種もある。書肆《しょし》からも催促される。金も欲《ほ》しい。けれどどうしても筆を執って文を綴《つづ》るような沈着《おちつ》いた心の状態にはなれなかった。強《し》いて試みてみることがあっても、考が纒《まとま》らない。本を読んでも二|頁《ページ》も続けて読む気になれない。二人の恋の温かさを見る度《たび》に、胸を燃《もや》して、罪もない細君に当り散らして酒を飲んだ。晩餐《ばんさん》
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