れませぬから、自分で如何《いか》ようにしても自活の道を求めて目的地に進むより他《ほか》はないとまで言ったそうだ。時雄は不快を感じた。
 時雄は一時は勝手にしろと思った。放っておけとも思った。けれど圏内の一員たるかれにどうして全く風馬牛《ふうばぎゅう》たることを得ようぞ。芳子はその後二三日訪問した形跡もなく、学校の時間には正確に帰って来るが、学校に行くと称して恋人の許に寄りはせぬかと思うと、胸は疑惑と嫉妬《しっと》とに燃えた。
 時雄は懊悩《おうのう》した。その心は日に幾遍となく変った。ある時は全く犠牲になって二人の為めに尽そうと思った。ある時はこの一伍一什《いちぶしじゅう》を国に報じて一挙に破壊して了おうかと思った。けれどこの何《いず》れをも敢《あえ》てすることの出来ぬのが今の心の状態であった。
 細君が、ふと、時雄に耳語《じご》した。
「あなた、二階では、これよ」と針で着物を縫う真似《まね》をして、小声で、「きっと……上げるんでしょう。紺絣《こんがすり》の書生羽織! 白い木綿の長い紐《ひも》も買ってありますよ」
「本当か?」
「え」
 と細君は笑った。
 時雄は笑うどころではなかった。

 芳子が今日は先生少し遅くなりますからと顔を赧《あか》くして言った。「彼処《あすこ》に行くのか」と問うと、「いいえ! 一寸《ちょっと》友達の処に用があって寄って来ますから」
 その夕暮、時雄は思切って、芳子の恋人の下宿を訪問した。
「まことに、先生にはよう申訳がありまえんのやけれど……」長い演説調の雄弁で、形式的の申訳をした後、田中という中脊《ちゅうぜい》の、少し肥えた、色の白い男が祈祷《きとう》をする時のような眼色をして、さも同情を求めるように言った。
 時雄は熱していた。「然《しか》し、君、解ったら、そうしたら好いじゃありませんか、僕は君等の将来を思って言うのです。芳子は僕の弟子《でし》です。僕の責任として、芳子に廃学させるには忍びん。君が東京にどうしてもいると言うなら、芳子を国に帰すか、この関係を父母に打明けて許可を乞《こ》うか、二つの中一つを選ばんければならん。君は君の愛する女を君の為めに山の中に埋もらせるほどエゴイスチックな人間じゃありますまい。君は宗教に従事することが今度の事件の為めに厭《いや》になったと謂《い》うが、それは一種の考えで、君は忍んで、京都に居りさえすれ
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