あお》る。気の弱い下女はどうしたことかと呆《あき》れて見ておった。男の児の五歳になるのを始めは頻《しき》りに可愛がって抱いたり撫《な》でたり接吻《せっぷん》したりしていたが、どうしたはずみでか泣出したのに腹を立てて、ピシャピシャとその尻を乱打したので、三人の子供は怖《こわ》がって、遠巻にして、平生《ふだん》に似もやらぬ父親の赤く酔った顔を不思議そうに見ていた。一升近く飲んでそのまま其処に酔倒れて、お膳の筋斗《とんぼ》がえりを打つのにも頓着《とんちゃく》しなかったが、やがて不思議なだらだらした節で、十年も前にはやった幼稚な新体詩を歌い出した。
[#ここから2字下げ]
君が門辺《かどべ》をさまよふは
巷《ちまた》の塵《ちり》を吹き立つる
嵐《あらし》のみとやおぼすらん。
その嵐よりいやあれに
その塵よりも乱れたる
恋のかばねを暁の
[#ここで字下げ終わり]
 歌を半ばにして、細君の被《か》けた蒲団《ふとん》を着たまま、すっくと立上って、座敷の方へ小山の如く動いて行った。何処へ? 何処へいらっしゃるんです? と細君は気が気でなくその後を追って行ったが、それにも関《かま》わず、蒲団を着たまま、厠《かわや》の中に入ろうとした。細君は慌《あわ》てて、
「貴郎《あなた》、貴郎、酔っぱらってはいやですよ。そこは手水場《ちょうずば》ですよ」
 突如《いきなり》蒲団を後から引いたので、蒲団は厠の入口で細君の手に残った。時雄はふらふらと危く小便をしていたが、それがすむと、突如《いきなり》※[#「革+堂」、第3水準1−93−80]《どう》と厠の中に横に寝てしまった。細君が汚《きたな》がって頻《しき》りに揺《ゆす》ったり何かしたが、時雄は動こうとも立とうとも為ない。そうかと云って眠ったのではなく、赤土のような顔に大きい鋭い目を明《あ》いて、戸外《おもて》に降り頻《しき》る雨をじっと見ていた。

        四

 時雄は例刻をてくてくと牛込矢来町の自宅に帰って来た。
 渠《かれ》は三日間、その苦悶《くもん》と戦った。渠は性として惑溺《わくでき》することが出来ぬ或る一種の力を有《も》っている。この力の為めに支配されるのを常に口惜しく思っているのではあるが、それでもいつか負けて了《しま》う。征服されて了う。これが為め渠はいつも運命の圏外に立って苦しい味を嘗《な》めさせられるが、世間からは正し
前へ 次へ
全53ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング