た。
「今夜は大変|綺麗《きれい》にしてますね?」
 男は態《わざ》と軽く出た。
「え、先程、湯に入りましたのよ」
「大変に白粉が白いから」
「あらまア先生!」と言って、笑って体を斜《はす》に嬌態《きょうたい》を呈した。
 時雄はすぐ帰った。まア好いでしょうと芳子はたって留めたが、どうしても帰ると言うので、名残《なごり》惜しげに月の夜を其処《そこ》まで送って来た。その白い顔には確かにある深い神秘が籠《こ》められてあった。
 四月に入ってから、芳子は多病で蒼白《あおじろ》い顔をして神経過敏に陥っていた。シュウソカリを余程多量に服してもどうも眠られぬとて困っていた。絶えざる欲望と生殖の力とは年頃の女を誘うのに躊躇《ちゅうちょ》しない。芳子は多く薬に親しんでいた。
 四月末に帰国、九月に上京、そして今回《こんど》の事件が起った。
 今回の事件とは他《ほか》でも無い。芳子は恋人を得た。そして上京の途次、恋人と相携えて京都|嵯峨《さが》に遊んだ。その遊んだ二日の日数が出発と着京との時日に符合せぬので、東京と備中との間に手紙の往復があって、詰問した結果は恋愛、神聖なる恋愛、二人は決して罪を犯してはおらぬが、将来は如何《いか》にしてもこの恋を遂げたいとの切なる願望《ねがい》。時雄は芳子の師として、この恋の証人として一面|月下氷人《げっかひょうじん》の役目を余儀なくさせられたのであった。
 芳子の恋人は同志社の学生、神戸教会の秀才、田中秀夫、年二十一。

 芳子は師の前にその恋の神聖なるを神懸けて誓った。故郷の親達は、学生の身で、ひそかに男と嵯峨に遊んだのは、既にその精神の堕落であると云ったが、決してそんな汚《けが》れた行為はない。互に恋を自覚したのは、寧《むし》ろ京都で別れてからで、東京に帰って来てみると、男から熱烈なる手紙が来ていた。それで始めて将来の約束をしたような次第で、決して罪を犯したようなことは無いと女は涙を流して言った。時雄は胸に至大の犠牲を感じながらも、その二人の所謂《いわゆる》神聖なる恋の為めに力を尽すべく余儀なくされた。
 時雄は悶《もだ》えざるを得なかった。わが愛するものを奪われたということは甚《はなは》だしくその心を暗くした。元より進んでその女弟子を自分の恋人にする考は無い。そういう明らかな定った考があれば前に既に二度までも近寄って来た機会を攫《つか》むに於
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