のように、最後の情を伝えて来た時、その謎《なぞ》をこの身が解いて遣《や》らなかった。女性のつつましやかな性《さが》として、その上に猶《なお》露《あら》わに迫って来ることがどうして出来よう。そういう心理からかの女は失望して、今回のような事を起したのかも知れぬ。
「とにかく時機は過ぎ去った。かの女は既に他人《ひと》の所有《もの》だ!」
歩きながら渠《かれ》はこう絶叫して頭髪をむしった。
縞《しま》セルの背広に、麦稈帽《むぎわらぼう》、藤蔓《ふじづる》の杖《ステッキ》をついて、やや前のめりにだらだらと坂を下りて行く。時は九月の中旬、残暑はまだ堪《た》え難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充《み》ち渡って、深い碧《みどり》の色が際立《きわだ》って人の感情を動かした。肴屋《さかなや》、酒屋、雑貨店、その向うに寺の門やら裏店《うらだな》の長屋やらが連《つらな》って、久堅町《ひさかたまち》の低い地には数多《あまた》の工場の煙筒《えんとつ》が黒い煙を漲《みなぎ》らしていた。
その数多い工場の一つ、西洋風の二階の一室、それが渠の毎日|正午《ひる》から通う処で、十畳敷ほどの広さの室《へや》で中央《まんなか》には、大きい一脚の卓《テーブル》が据えてあって、傍に高い西洋風の本箱、この中には総《すべ》て種々の地理書が一杯入れられてある。渠はある書籍会社の嘱託を受けて地理書の編輯《へんしゅう》の手伝に従っているのである。文学者に地理書の編輯! 渠は自分が地理の趣味を有っているからと称して進んでこれに従事しているが、内心これに甘《あまん》じておらぬことは言うまでもない。後《おく》れ勝なる文学上の閲歴、断篇のみを作って未《いま》だに全力の試みをする機会に遭遇せぬ煩悶《はんもん》、青年雑誌から月毎に受ける罵評《ばひょう》の苦痛、渠《かれ》自らはその他日成すあるべきを意識してはいるものの、中心これを苦に病まぬ訳には行かなかった。社会は日増《ひまし》に進歩する。電車は東京市の交通を一変させた。女学生は勢力になって、もう自分が恋をした頃のような旧式の娘は見たくも見られなくなった。青年はまた青年で、恋を説くにも、文学を談ずるにも、政治を語るにも、その態度が総て一変して、自分等とは永久に相触れることが出来ないように感じられた。
で、毎日機械のように同じ道を通って、同じ大きい門を入って、輪転機関の屋《いえ
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