一種の遠いかすかなるとどろき、仔細《しさい》に聞けばなるほど砲声だ。例の厭な音が頭上を飛ぶのだ。歩兵隊がその間を縫って進撃するのだ。血汐《ちしお》が流れるのだ。こう思った渠は一種の恐怖と憧憬《どうけい》とを覚えた。戦友は戦っている。日本帝国のために血汐を流している。
修羅《しゅら》の巷《ちまた》が想像される。炸弾《さくだん》の壮観も眼前に浮かぶ。けれど七、八里を隔てたこの満洲の野は、さびしい秋風が夕日を吹いているばかり、大軍の潮のごとく過ぎ去った村の平和はいつもに異ならぬ。
「今度の戦争は大きいだろう」
「そうさ」
「一日では勝敗がつくまい」
「むろんだ」
今の下士は夥伴《なかま》の兵士と砲声を耳にしつつしきりに語り合っている。糧餉を満載した車五輛、支那苦力の爺連《おやじれん》も圏《わ》をなして何ごとをかしゃべり立てている。驢馬の長い耳に日がさして、おりおりけたたましい啼《な》き声が耳を劈《つんざ》く。楊樹の彼方《かなた》に白い壁の支那民家が五、六軒続いて、庭の中に槐《えんじゅ》の樹《き》が高く見える。井戸がある。納屋《なや》がある。足の小さい年老いた女がおぼつかなく歩いていく。楊樹を透かして向こうに、広い荒漠たる野が見える。褐色した丘陵の連続が指さされる。その向こうには紫色がかった高い山が蜿蜒《えんえん》としている。砲声はそこから来る。
五輛の車は行ってしまった。
渠《かれ》はまた一人取り残された。海城から東煙台、甘泉堡《かんせんほう》、この次の兵站部《へいたんぶ》所在地は新台子といって、まだ一里くらいある。そこまで行かなければ宿るべき家もない。
行くことにして歩き出した。
疲れ切っているから難儀だが、車よりはかえっていい。胸は依然として苦しいが、どうもいたしかたがない。
また同じ褐色の路、同じ高粱《コーリャン》の畑、同じ夕日の光、レールには例の汽車がまた通った。今度は下り坂で、速力が非常に早い。釜《かま》のついた汽車よりも早いくらいに目まぐろしく谷を越えて駛《はし》った。最後の車輛に翻《ひるがえ》った国旗が高粱畑の絶え間絶え間に見えたり隠れたりして、ついにそれが見えなくなっても、その車輛のとどろきは聞こえる。そのとどろきと交じって、砲声が間断なしに響く。
街道には久しく村落がないが、西方には楊樹のやや暗い繁茂《しげり》がいたるところに
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