うに押し寄せては引き、引いては押し寄せる。押し寄せるたびに脣《くちびる》を噛《か》み、歯をくいしばり、脚を両手でつかんだ。
五官のほかにある別種の官能の力が加わったかと思った。暗かった室《へや》がそれとはっきり見える。暗色の壁に添うて高いテーブルが置いてある。上に白いのは確かに紙だ。ガラス窓の半分が破れていて、星がきらきらと大空にきらめいているのが認められた。右の一隅には、何かごたごた置かれてあった。
時間の経《た》っていくのなどはもうかれにはわからなくなった。軍医が来てくれればいいと思ったが、それを続けて考える暇はなかった。新しい苦痛が増した。
床近く蟋蟀《こおろぎ》が鳴いていた。苦痛に悶《もだ》えながら、「あ、蟋蟀が鳴いている……」とかれは思った。その哀切な虫の調べがなんだか全身に沁《し》み入るように覚えた。
疼痛、疼痛、かれはさらに輾転反側した。
「苦しい! 苦しい! 苦しい!」
続けざまにけたたましく叫んだ。
「苦しい、誰か……誰かおらんか」
としばらくしてまた叫んだ。
強烈なる生存の力ももうよほど衰えてしまった。意識的に救助を求めると言うよりは、今はほとんど夢中である。自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪《なみ》の叫び、人間の悲鳴!
「苦しい! 苦しい!」
その声がしんとした室にすさまじく漂い渡る。この室には一月前まで露国の鉄道援護の士官が起臥《きが》していた。日本兵が始めて入った時、壁には黒く煤《すす》けたキリストの像がかけてあった。昨年の冬は、満州の野に降りしきる風雪をこのガラス窓から眺《なが》めて、その士官はウォツカを飲んだ。毛皮の防寒服を着て、戸外に兵士が立っていた。日本兵のなすに足らざるを言って、虹《にじ》のごとき気焔《きえん》を吐いた。その室に、今、垂死の兵士の叫喚《うめき》が響き渡る。
「苦しい、苦しい、苦しい!」
寂としている。蟋蟀は同じやさしいさびしい調子で鳴いている。満洲の広漠《こうばく》たる野には、遅い月が昇ったと見えて、あたりが明るくなって、ガラス窓の外は既にその光を受けていた。
叫喚、悲鳴、絶望、渠《かれ》は室の中をのたうちまわった。軍服のボタンは外《はず》れ、胸の辺はかきむしられ、軍帽は頷紐《あごひも》をかけたまま押し潰《つぶ》され、顔から頬にかけては、嘔吐《おうと》した汚物が一面に附着した。
突然
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