自分はとても生きて還《かえ》ることはおぼつかないという気がはげしく胸を衝《つ》いた。この病、この脚気、たといこの病は治ったにしても戦場は大なる牢獄である。いかにもがいても焦《あせ》ってもこの大なる牢獄から脱することはできぬ。得利寺で戦死した兵士がその以前かれに向かって
 「どうせ遁《のが》れられぬ穴だ。思い切りよく死ぬサ」と言ったことを思い出した。
 かれは疲労と病気と恐怖とに襲われて、いかにしてこの恐ろしい災厄を遁《のが》るべきかを考えた。脱走? それもいい、けれど捕えられた暁には、この上もない汚名をこうむったうえに同じく死! さればとて前進すれば必ず戦争の巷《ちまた》の人とならなければならぬ。戦争の巷に入れば死を覚悟しなければならぬ。かれは今始めて、病院を退院したことの愚をひしと胸に思い当たった。病院から後送されるようにすればよかった……と思った。
 もうだめだ、万事休す、遁れるに路《みち》がない。消極的の悲観が恐ろしい力でその胸を襲った。と、歩く勇気も何もなくなってしまった。とめどなく涙が流れた。神がこの世にいますなら、どうか救《たす》けてください、どうか遁路《にげみち》を教えてください。これからはどんな難儀もする! どんな善事もする! どんなことにも背《そむ》かぬ。
 渠《かれ》はおいおい声を挙《あ》げて泣き出した。
 胸が間断《ひっきり》なしに込み上げてくる。涙は小児でもあるように頬《ほお》を流れる。自分の体がこの世の中になくなるということが痛切に悲しいのだ。かれの胸にはこれまで幾度も祖国を思うの念が燃えた。海上の甲板《かんぱん》で、軍歌を歌った時には悲壮の念が全身に充《み》ち渡った。敵の軍艦が突然出てきて、一砲弾のために沈められて、海底の藻屑《もくず》となっても遺憾がないと思った。金州の戦場では、機関銃の死の叫びのただ中を地に伏しつつ、勇ましく進んだ。戦友の血に塗《まみ》れた姿に胸を撲《う》ったこともないではないが、これも国のためだ、名誉だと思った。けれど人の血の流れたのは自分の血の流れたのではない。死と相面《あいめん》しては、いかなる勇者も戦慄《せんりつ》する。
 脚が重い、けだるい、胸がむかつく。大石橋から十里、二日の路、夜露、悪寒《おかん》、確かに持病の脚気《かっけ》が昂進《こうしん》したのだ。流行腸胃熱は治《なお》ったが、急性の脚気が襲ってきたの
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