樹のところに来て旅商人はふと立ち留まった。痩《や》せた、顔の青い、髪の延びた男であった。背には風呂敷《ふろしき》包み、紺の脚絆《きゃはん》も長旅の塵埃に塗《まみ》れて、いかにも疲れ果てたというふうであったが――立ち留まって、あとを追いかけてきた田舎娘を待った。伴《つ》れていってやるから、なんでも言うことを聞くかという。お作は喜んだ。
その楊樹の繁《しげ》みをお作はいつも思い出す。まだ何ごとをも知らぬ小娘、長旅の疲労に伴って起こった男のはげしい慾望、彩色を施した横|綴《と》じの絵、――二十分の後、旅客の大跨《おおまた》で走って遁《に》げていくのをお作は泣きながら追った。けれど女の足でどうしてこれに追いつくことができよう。欺かれたと知って、忿怒《いかり》がたちまち心頭を衝《つ》いて起こった。お作は小石を拾ってあとから投げた。一つが旅商人の背中に当たった。と、振り返ったその顔、それが今でもありありと眼に見える。
その時が十四歳、それから十九歳の昨年まで、お作はその呪《のろ》うべき故郷を去ることができなかったのだ。叔父夫婦の虐待、終日の労働、夏のじりじりと眼も眩《くら》む日に雇われて、十
前へ
次へ
全12ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング