東京に行けばそのイヤな監視を遁れることが出来ると思って、それを唯一の希望にして来たのであった。しかしそれも空頼であった。こうした弱い者を酷める社会の残酷さが、染々と痛感されて来た。勇吉は恐ろしくなって体を震わした。
「お前のように気にしたって仕方がないじゃないか。わるいこともしないのに、向うで勝手について来るんだから仕方がないじゃないか。」
 こうたしなめるように妻には言って聞かせたけれど、勇吉は妻以上にその監視を恐れていた。これで出京の希望が十の八九まで破れたようにさえ勇吉には思われた。
 二三日して刑事が訪ねて来た時は丁度活版所から出来た暦を届けてよこして呉れたところであった。勇吉は丁寧に刑事を座敷に通して、死刑に処せられた友達と自分との関係に就いて詳しく話して聞かせた。しかしジロジロと体を捜すようにして見る刑事の眼に出会って時々声を顫わせたりなどした。刑事は痩せた神経質の男を勇吉に見た。勇吉の眼のわるく光るのも気味わるく刑事は思った。何をするかわからない危険人物のように刑事の眼には映って見えた。
「何うも、そうでしょうけれど……私の方も役目ですからな。」
 刑事はこんなことを言った。
「実際、馬鹿な話なんです。仕事をするにも、そんな風に思われていると、非常に迷惑なんです。友達の手紙の中に私の名があったから、帳面に書かれて了って、こうやって何処までも何処までもついて来られるんですが、その帳面から名を消して戴くわけには行かないでしょうか。調べるなら、いくら調べて頂いても好いんです。却って望むところなんです。調べもしないで、唯、跡をつけられるんですから困るんです。調べて頂きたいもんですがな。」
 勇吉は声を顫わして言った。
「何うも仕方がないんですよ。」刑事も流石に気の毒そうな顔をして笑って言ったが、其処に積んである印刷物を見て、「何です、それは?」
 勇吉はそれを一枚取って渡した。刑事はヤマダトコヨゴヨミなどと読んでいた。暦だということだけはわかるが、トコヨゴヨミとは何ういう暦だか刑事はよくわからなかった。刑事は勇吉の顔をジロジロ見ていたが、「何です、これは?」
 勇吉はお前なぞにはわかるもんかと言うような顔をして得意そうにその仕かけを話して聞かせた。
「はアそうですか、これは成ほど面白いな。」こんなことを言って大正三年の処をくるくる廻して、「これで来年一年の七曜が出るんですな、これは面白い。」刑事はこう言ってまた今年の処を廻して見た。
「一つ差上げましょう。」
「そうですか。」といって、「イヤ何アに、買いますよ。」
 勇吉が呉々も頼むと、「私は疑っても何もいやしないですけれどもな、職務ですからな、しかし長い中には、段々様子を見て、帳面を消すことになっているんですから……私の方だって用の少い方が好いんだから。」後には刑事も打解けてこんなことを言った。

     七

 暦を五、六枚持って、市中の雑誌店や何かを勇吉が廻って歩いたのはもう年の暮も押詰った二十五六日であった。市中は賑かに派手な粧飾などをして、夜は電気が昼のように街頭を照した。車や自動車が威勢よく通って行ったりした。
 何処の雑誌店でも、相手にしないような家が多かった。仕かけを説明してきかせても、容易に飲み込めないような人ばかりであった。「まア、なんなら二三枚置いて行って御覧なさい。」こう言って呉れる家は中でも深切な好い方であった。ある店では、「暦はもう遅いですよ。もう大抵何処の宅だって買って了いましたからな……もうちっと早ければ売りようもあったでしょうけれども、こう押詰っちゃ駄目ですよ。」などと言った。勇吉はためしに置いて貰う位で満足しなければならなかった。
 それでも百枚ほどは足を棒のようにして、彼方此方の店に行って頼んで置いて貰った。本郷から小石川、牛込、下谷、浅草の方まで行った。毎日勇吉はヘトヘトに労れて家に帰って来た。
 二三日経ってから、置いて来た店を勇吉は廻りに出かけて行った。勇吉は非常に失望して帰って来た。殆ど一軒も売れないと言っても好い位であった。何処でも店の隅の方に形式だけに置いてあった。「其処にあるから、見て行って下さい。」などと言った。「売れませんな矢張、ゆっくり広告でもしなけりゃ、いくら好いものだって売れやしませんよ。」ある店ではこんなことを言われた。勇吉は都会の塵埃にまみれて暗い顔をして帰って来た。
 荒蕪地で、薬売をやっていた時の方が何んなに好いか知れなかったなどと勇吉は思った。そこには広々した天然があった。其処に住んでいる人も、都会に住んでいるような忙しい冷淡な人間ではなかった。
 歩いている路にも、餓を刺戟する蕎麦屋、天ぷら屋などもなければ、性慾を刺戟する綺麗なぴらしゃらする女もなかった。勇吉は計画が全く徒労になったような気がして
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