兎に角其処で印刷させることにして、その翌日すぐ原稿を持って行った。
 鬚の生えた四十恰好の主人は、勇吉からその原稿の説明を聞いて、「成るほど、これは面白いもんだ。千年前でも千年後でも何日は何曜日だって言うことがちゃんとわかるんですな、これは新案だ。」などと言って、丸いものを自分で廻して見たりした。
「博士の証明までついているんですな、これなら確かなもんだ。」などと言った。「忙しいけれども、兎に角二十日までにこしらえて上げましょう。千枚ですな……。」こう言ってちょっと途切れて、「それで紙の色は何が好いでしょう。」
 勇吉は見本に出した小さな帳面をひっくりかえして見た。色の種類も少なく好い色もなかった。ふとかれの崇拝している作家の短篇集の表紙に似た色が其処にあったのを見て、「これにしましょう、これにしましょう。」と早口に言った。
「知っている絵かきがありますから、何か少し周囲に意匠をさせましょうか。いくらもかかりゃしません。余り周囲に何もなくってはさびしいですからな、書斉の柱なんかにかけて粧飾にして置くもんだから……。」深切な主人はこんなことを言って呉れた。原稿を持って行ってから俄かに主人の態度の変って行ったのも勇吉には成功の第一のように見えた。
 博士の邸を本郷の高台に訪ねて行った時には、怪しい姿を玄関にいる大きな犬に噛みつくように吠えられて、かれは狼狽した。幸いに博士は在宅で、立派な庭に面した大きな室で逢って呉れた。「それは好いですな、登録すれば一層好いんだけれども、まあ、誰も始めは真似るものもあるまい。少し売出してからにする方が好い。」などと言ってて、版権登録の手続などを教えて呉れた。勇吉は土産に持って行ったものを出すのが恥かしいような気がした。
 帰る時に、漸く思切って、「これはあっちで取れたので御座いますが、私がつくったんだと猶好いんですけれども……そうじゃ御座いませんけれども、折角持って参ったんですから。」
 こう言って、木綿の汚れた風呂敷から新聞紙に包んだ一升足らずの白隠元豆を其処に出した。
「イヤ、これは有難う。好い豆が出来るな、矢張り、彼方では。」
 博士は莞爾しながら言った。
 勇吉は唯まごまごして暮した。印刷が出来上らない中は販路の方に取りかかることも出来ないので、仕方なしに職業の方を彼方此方で訊いて見たりなどした。路の通りにある職業周旋のビラの沢山に張って出してある家の中にも入って行って見た。其処には矢張かれと同じように職業を求める青年がいて、あるかなしの財布の中から五円札を一枚出したりしていた。勇吉はいろいろなことを訊いて其処から帰って来た。
 ある学校友達は、此前東京に出た時分には、早稲田の学校に入って劇の方に志していたが、此頃では大分文壇に名高くなって、その人の書くものなどが時々芝居に演ぜられたりなどしていた。一度其処を訪問して見ようと思ったがまア印刷が出来上ってからと思って、途中まで行ったのを引かえして戻って来た。「千枚で五十三円、二十円位で出来ると思っていたのに……大分の違いだ。」こんなことを思って、かれは歩きながら貯金を腹の中で勘定したしりた。「二月、三月はまア好いが、そうかと言って、女房と子供をかかえて遊んでなんかいられない。」かれは蕎麦屋にも入らずに、飢えた腹を抱えて裏店の狭い自分の宅に帰って来た。
 印刷は何うもはかどらなかった。二十日でも、もう遅いと思っているのに、二十一日になっても、まだその暦は出来て来なかった。催促に行くと、「何うも廻すところが旨く行きませんでな。」などと言って主人はその半分出来かかったものを持って来て見せた。成るほど旨く廻らなかった。「もう少し厚い紙にしなけりゃ駄目だ。」などと言った。周囲の意匠はかなりによく出来ていた。四季の花卉が四隅に小さく輪廓を取って書いてあった。「明日までには是非拵えて下さい。でないと困るんですから。」こう強く頼んで、勇吉は其処から帰って来た。イヤに曇った寒い日で、近所の工場の煤烟が低くあたりにむせるように靡いて来ていた。
 家に帰ると、妻は不愉快な心配そうな顔をして坐っていた。
 突然、
「貴方、また来たよ。」
 勇吉はゾッとした。「え? 来た?」
 漸く免れた危機に再び迫られて来たような戦慄を勇吉は覚えた。勇吉は棒のように其処に立っていた。
「矢張、駄目ですね。」
 妻は失望したように言った。今から一時間ほど前、巡査が入って来て、「お前は北海道から来たのか。」と訊いた。「士別の近所にいたんだな。」こう言ってつづいていろいろなことを訊いた。Socialist の取扱を受けていたということをちゃんと巡査は知っていた。イヤなことを種々言ってまた其中主人のいる時来ると言って帰って行った。
「何うしても駄目かね。」
 勇吉は黙って暗い顔をしていた。
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