いれば、親子三人雪の中で餓えて死んで了うばかりだ。」
こう思うと、勇吉はいても立ってもいられないような心持がした。それに海岸の村で聞いて来た Socialist に対する官憲の方針はかれの恐怖の血を泡立たせた。自分のあとには常に刑事がついていて、自分の考えていることは何も彼も知っている。こう思うと、怖くって仕方がなかった。片時も心の安まる時がなかった。自分は何もわるいことはしないのだけれど、今までのことが既に大きな罪になっていて、突然刑事や巡査がやって来て自分を伴れて行きはしないかとさえ疑われた。
かれは部落に一人いる巡査を怖いものに思って、その駐在所の傍は常によけるようにして通って行った。
ふと思いついた。かれは例の通り膝を拍った。晴々しい顔をして心の中で叫んだ。「そうだ。そうだ、そうしよう。あいつを持って東京へ行こう。あいつなら確かだ。確に売れる。誰も必要な重宝なものだから……。」かれは海岸の村にいる時分、一生懸命になって、ある一種の暦を発明したことを思い出したのであった。それは千年前乃至千年後の二十八宿と七曜日が数字の合せ方で間違いなく出て来るというようなものであった。それをかれはかれの不思議な数学的の頭から案出した。かれはそれを郷里出身の理学博士に送って賞讃を博した。現にその博士の手紙を勇吉は持っていた。「そうだ、それに限る。暦は安くって必要なものだから、いくらでも売れる。東京に行って、安い印刷所でこしらえれば費用だっていくらもかからない。一枚二、三十銭位で売り出せば屹度売れる。そうだ。好いことに思い附いた。」こう思って、かれは文庫の底からその暦の原稿を出して、更に博士の手紙を読みかえした。「七曜の数の出し方は確かに貴下の新研究と存候――。」こう書いてあった。今まで持っていた才能を何故今までつかわずに置いたかと勇吉は思った。限りない勇気が全身に漲って来た。神! 神が救けて呉れた! こんな風にも思って雀躍した。
Socialist としての圧迫も、東京に行けば何うにでもなると勇吉は思った。「東京は広い。身を躱して了えばわかりゃしない。巡査だって、刑事だって、そうそうはさがして歩かれやしまい。それに、東京には代用小学校がいくらでもある。教員の口だってさがせばわけはない。そうだ。そうだ。こんなところに齷齪して、雪の中に餓えて死んで了うことはない。それに限る
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