たのですけれども。ふとしたことから……、さア、そのふとしたことは何ういふことかわかりませんけれど、兎に角、急にあゝいふ風に、悪魔でも魅入《みい》つたやうになつて了つたものだから。」
「娘の片附いたのは、老僧が死んでからですか?」
「いえ/\、貴方《あなた》が寺をおいでになつてから二年ほど経《た》つか経たないほどです。」
「さうですか……」
 意想外な気がかれにはした。
 それからそれへと種々なことを思つてゐる中に、かれはいつとなく睡眠《ねむり》の襲つて来るのを感じた。そのまゝぐつすりと寝込んで了つた。
 朝起きると、日がもう高くあがつてゐた。婆さんはもうとうに起きて、広い勝手元で、昔のまゝの土竈《どべつつひ》で、釜《かま》と火箸《ひばし》で朝飯を炊《た》いてゐるのを見た。何を見ても、昔のことが思ひ出されないものはなかつた。かれは夏草に半ば埋められた井戸を見た。本堂から山門につゞいてゐる長い敷石を見た。それも依然として元のまゝである。唯、その時分には掃除が綺麗に行届いて、その石に添つて松葉牡丹《まつばぼたん》の赤く白いのが長く見事に咲き続いてゐた。
 かれは横楊枝《よこやうじ》で歯をみが
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