は、田舎ではどうすることも出来ないので、東京へ出かけて行つて、種々《いろ/\》の艱難辛苦を嘗《な》めた挙句、貧民窟《ひんみんくつ》近くに金貸の看板をかゝげて、十年間に巨万の財産を造つた。今では東京に大きな邸宅を構へて、大名のやうな生活をしてゐるといふことであつた。
 これが世の中の変遷である。しかし、さういふことが、さういふ表面の漣《さゞなみ》が、どれだけの意味を持つてゐるのであらうか。かうは思ふものの、かれは時々、「それが人生ではないか。それが本当の人生ではないか。自分のやつて来た生と死、恋愛、個人と自由、さういふことは、余り深く自己に執着しすぎたためではないか。」といふやうにも飜つて考へて見た。
「そんなことはない。」
 かれはすぐかう打消した。
 かれはあらゆる艱難《かんなん》の中をも、巴渦《づまき》の中をも、恐怖の中をも通つて来た。そしてその中からすぐれた真珠の玉のやうな宝をつかんだと思つた。しかし、つかんだと思つたその珠《たま》は、いつの間にかかれの掌中《しやうちゆう》から落ちて行つてゐた。
 かれは時には一里ほどある町の方へと出かけて行つた。麦稈帽《むぎわらばう》をかぶつた単衣《ひとへ》に絽《ろ》の古びた羽織を着たかれの姿は、午後の日の暑く照る田圃道《たんぼみち》を静かに動いて行つた。町は市日《いちび》で、近在から出た百姓がぞろ/\と通つた。種物屋の暖簾《のれん》は、昔と少しも異《かは》らずに、黒い地に白く屋号をぬいて日に照されてゐるのを見た。氷屋の店では、赤い腰巻をした田舎娘《ゐなかむすめ》が二三人腰をかけて、氷水を匙《さじ》ですくつて飲んでゐた。
 ある店の前を通ると、
「慈海さんぢやないか?」
 かうある婆さんがいきなり呼んだ。ちよつとはその誰であるかがわからなかつたが、暫くしてそれは不動堂の前の湯屋をした上《かみ》さん――その時分は三十位でいき[#「いき」に傍点]な如才のない上《かみ》さんであつたといふことがわかつた。「まアお上り……帰つてゐるツて聞いたから、一度|逢《あ》ひたいとは思つてゐたんだよ。」かう言つてかれは無理に引上げられた。上さんは亭主に四五年前に死なれて、今は息子が家のことを万事やつてゐた。湯屋から町へ出て、今の小間物商を始めたといふことであつた。
 話の中には再び昔の不動前の賑かな光景が蜃気楼《しんきろう》のやうに浮んで来た。老
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