の芽を蒔かなければならないほどの必要をかれ等の魂は感じつゝあつたのであらうか。
 かれは失敗して本国に帰る舟の中でそれを聞いた。かれはその時の烈しいショックを忘れることが出来なかつた。急にかれの世界は狭くなつたやうな気がした。其処にも此処にも自分を監視する眼がついて廻つてゐるやうな気がした。かれは自分の舟の本国に向つて航しつゝあるのを恐れた。かれは船室の中にのみ閉籠《とぢこも》つた。
 エイア・ブウルからは美しい碧《あを》い海が見えた。行つても行つても海である。掀翻《きんぽん》し、飛躍し、奔跳《ほんてう》する海である。その上には時には明るい朝日が照り、わびしい黄《きいろ》い夕日が落ち、赤い湧《わ》くやうな雲が浮んだ。「群」の人達の記憶は払つても払つても絶えずかれの魂を襲つた。かれは時にはいつそ身を海中に躍《をど》らせようと思つて甲板《かんぱん》の上を往来した。
 ――「何《ど》うです、一度故郷の寺に帰る気はありませんか。あなたが跡をついで下さるなら、それに越したことはないのですが、世話人達も、村の者共も、貴方《あなた》ならば喜んでお迎へするにきまつてをりますが。」かうその世話人から言はれた時には、そこより他《ほか》に、その古い人知らない田舎《ゐなか》の廃寺より他に、自分の身を、体を置くところはないやうにかれは思つた。老師の魂が荒《すさ》んだ自分の魂を救つて呉れるやうにすらかれは思つた。
 かれは尠《すくな》くとも落附いて考へて見なければならないと思つた。これまでに自分のやつて来たことは、すべて皆な失敗に終つた。あらゆる悲喜、あらゆる事業、あらゆる思想、すべて皆な不自然であつた。自由を欲する――唯この一語にすら、かれはあらゆる矛盾と撞着《どうちやく》とを感じた。意志と魂との区別も、もつと深く静かに考へて見なければならなかつた。それには、田舎《ゐなか》の山の中の寺、廃寺、何の束縛もないのが好いと思つた。余りに多く世に染まりすぎた。世間と人間とに捉《とら》はれすぎた。静かに休息させて下さるなら……一二年行つて見たいからといふ手紙をかれは世話人に書いた。
 かれは郊外の或る家に置いた自分の書籍――かれやかれの「群」が一生懸命に読んだ書籍、パンの問題、精神の問題、自由意志の問題、さういふことを書いた沢山の書籍をある日古本屋を呼んで売つた。古本屋は何も知らない半ば老いた男であつ
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