と移つて行つたのも半ばそのためであつたのであつた。十九でかれはそれまで学んだ仏の道を捨てた。それからそれへと種々《いろ/\》なことをして歩いた。台湾にも行けば満洲にも行つた。仏の戒めた戒律をわざと破つて行くやうに見えるほどそれほど荒《すさ》んだ生活をやつて来た。或は寺にゐられなくなつた兄弟子よりも、もつともつと烈しいデカダンの生活を送つて来たかも知れなかつた。
寺の世話人――今度此処にかれを伴《つ》れて来た寺の世話人に東京でゆくりなく逢《あ》つた時、かれは寺のことを聞き、老僧のことを聞き、兄弟子のことを聞き、最後に柔しい涙を含んだ眼の持主のことを聞いた。
「さうですか、K町に行つてゐますか。K町の商人の妻になつてゐますか。それは何より結構ですな……。子供は? へゝえ、御座いませんか。一体、何方《どちら》かと言へば体の弱い女でしたからな。」
かう何気ない風をしてかれは言つた。
世話人の話で、かれは始めてその寺の娘が兄弟子の妻にならなかつたことを知つたのであつた。世話人はつゞいて話した。「いゝえ、別にさういふわけではないんですけれども、……老僧のある中は、隠居してからも、先代は固かつたのですけれども。ふとしたことから……、さア、そのふとしたことは何ういふことかわかりませんけれど、兎に角、急にあゝいふ風に、悪魔でも魅入《みい》つたやうになつて了つたものだから。」
「娘の片附いたのは、老僧が死んでからですか?」
「いえ/\、貴方《あなた》が寺をおいでになつてから二年ほど経《た》つか経たないほどです。」
「さうですか……」
意想外な気がかれにはした。
それからそれへと種々なことを思つてゐる中に、かれはいつとなく睡眠《ねむり》の襲つて来るのを感じた。そのまゝぐつすりと寝込んで了つた。
朝起きると、日がもう高くあがつてゐた。婆さんはもうとうに起きて、広い勝手元で、昔のまゝの土竈《どべつつひ》で、釜《かま》と火箸《ひばし》で朝飯を炊《た》いてゐるのを見た。何を見ても、昔のことが思ひ出されないものはなかつた。かれは夏草に半ば埋められた井戸を見た。本堂から山門につゞいてゐる長い敷石を見た。それも依然として元のまゝである。唯、その時分には掃除が綺麗に行届いて、その石に添つて松葉牡丹《まつばぼたん》の赤く白いのが長く見事に咲き続いてゐた。
かれは横楊枝《よこやうじ》で歯をみが
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