は、約その三分の二を書き上げることができた。で、原稿を関君に渡して、ほっと呼吸をついた。
それから後は、なかば校正の筆を動かしつつ書いた。関君と柴田流星君が毎日のように催促に来る。社のほうだってそう毎日休むわけには行かない。夜は遅くまで灯の影が庭の樹立《こだち》の間にかがやいた。
反響はかなりにあった。新時代の作物としてはもの足らないという評、自分でも予期していた評がかなり多かった。それに、青年の心理の描写がピタリと行っていない。こうも言われた。やはり自分で、すっかりのみ込んでしまわなかった部分が、どこか影が薄いのであった。
巻頭に入れた地図は、足利《あしかが》で生まれ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしかがいしてその足跡が至らなかった青年の一生ということを思わせたいと思ってはさんだのであった。
関東平野の人たちの中には、この『田舎教師』を手にしているのをそこここで見かけた。乗合馬車の中で女教員らしい女の読んでいるのを見たこともあれば、こんな旅館にと思われるような帳場に放り出されてあるのを見たことがあった。「中田の遊廓《ゆうかく》に行ったなんて、うそだそうですよ。小説家なんて、ひどいことを書くもんですね」 こういう言葉も私の耳にはいった。
実際、中田の遊廓の一条は、仮構であった。しかし、青年の一生としては、そうしたシーンが、形は違っても、どこかにあったに相違ないと私は信じた。一年間、『日記』がとだえているのなども、私にそういう仮構をさせる余地を与えた。それに、その一条は、多少、作者と主人公と深く交り合っているような形である。
刀根《とね》の下流の描写は、――大越から中田までの間の描写は想像でやったので、後に行ってみて、ひどく違っているのを発見して、惜しいことをしたと思った。やはり、写生でなければだめだと思った。これに引きかえて、発戸《ほっと》河岸の松原あたりは、実際行ってみて知っているので、その地方を旅行した人たちからよくほめられた。
刀根川の土手の上の草花の名をならべた一章、これを見ると、いかにも作者は植物通らしいが、これは『日記』に書いてあるままを引いたのである。
しかし、とにかく、一青年の志を描き出したことは、私にとって愉快であった。『生』で描いた母親の肖像よりも、つきすぎていないゆえか、いっそう愉快であった。私は人間の魂を取り扱ったような
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