留吉を歩かせました。「御用の方はこの釦《ボタン》を押されたし」と柱の釦のわきに書いてある。留吉は読みました。
「おれは用があるのだ。それにここの主人はおれの友達だからな」留吉は釦を押した。ヂリヂリヂリとどこか家の奥の方で音がしました。そういう仕かけかなと思って、留吉は、入口のガラス戸のとこを見ていますと、そこに一寸角ほどの穴があいています。そこで大きな一つ眼《め》がぎらっと光ったかと思うと、頭の上でヂリヂリヂリと、舶来の半鐘のような音がしました。留吉はもうとてもびっくりして、何を考える暇もなく、どんどん門の方へ駈《か》けだしました。
 するとその拍子に、留吉の帽子が留吉の頭から飛去って、ころころと転《ころが》ってゆきました。こいつは大変だと思っていると、悪い時には悪いことがあるもので、造花の西洋花の中から、歯をむいたチンのような顔をした、しかしずっと愛嬌《あいきょう》のない大犬が出てきて留吉を追いかけました。
 留吉は、十一番地のところまでまるで夢中で駈出《かけだ》しました。やれやれとそこで立どまると、あとから今田《いまだ》家と襟を染めぬいた法被をきた男が、留吉の帽子を持って立っていました。「どうも、これはお世話をかけました」と言って留吉がその帽子を受取ろうとしますと、その手をぐっとその男は掴《つか》んで「ちょっと来い」と言ってペンキ塗《ぬり》の白い家へ連れてゆきました。椅子《いす》に腰かけた人間の眼が十三ほど、一度にぎろっと留吉の方を見ました。それは巡査でした。
「先程電話でお話のあったのはそいつですね」一人の巡査が立ってきて、法被の男に言いました。
「こいつですよ、旦那《だんな》」法被の男が言いました。
「私はその、なんにも悪いことをしたのではないですよ。その、私は、その、昔の友達を訪ねていったですよ。ただその、眼《め》が、眼がそのヂリヂリヂリっと言ったでがすよ」留吉《とめきち》は巡査に言いました。巡査は髭《ひげ》を引張《ひっぱ》って言いました。
「お前は今田《いまだ》氏の昔の友達だと言うのだね。それに違いないか、何という名だ」。
 巡査は今田氏へ電話をかけました。
「ははあなるほど、昔の友達だなどと当人は申して居《お》りますが……ははあ、いやわかりました。では、とりあえずですな、外《ほか》に窃盗などの目的はなかったものと推定して、放免することにいたしましょう。……はい……はい、どうもお手数をかけました。」チリンチリン
 電話をかけ終った巡査は、また留吉の方へ出て、さて言うには、
「今田氏はお前のような友達は持ったことはないと仰言《おっしゃ》るよ」
「今田|時雄《ときお》は、その、算術の試験の時……」
「もう好《よ》い。兎《と》に角《かく》この帽子はお前に返してやるが、今後は、他人の邸宅へ無断で侵入しては相ならぬぞ、よしか」
 留吉は、とある公園のベンチに腰かけて、つくづくと帽子を眺めました。
 この帽子が悪いのだ。とにかくこの帽子は、おれを今よりもっと不幸にするかも知れない。田の草をとる時にも、峠を越す時にも、この帽子はおれの連《つれ》だったが、今は別れる時だ。留吉は、帽子を捨《すて》てしまおうと決心しました。そこで、腰かけていたベンチの下へ、その帽子をそっとかくして、そこを立ちさりました。公園の門を二三間歩くと、
「おいおい」と言って巡査が追いかけてきました。
「これは、君のだろう」と言って、帽子を留吉に渡しました。
「いや、その、これはその……」留吉が、何か言おうとするうちに、もう巡査は、ほかの帽子か何かを探しにいってしまいました。
 留吉は、不幸な帽子を手に持って歩いているうちに、たいへん腹がへってきました。
「民衆食堂一食金十銭」と書いてある西洋館がありました。留吉は、そこへ這入《はい》っていって、隅っこのあいた椅子《いす》に腰かけて、帽子を卓子《テーブル》の上へおきました。
 十銭の食事が終ると、留吉は帽子を椅子の下へかくして、何食わぬ顔をして、出てきました。「君の帽子だろう」あとから食堂を出てきた車屋さんが、すっぽりと留吉《とめきち》の頭へ、帽子は[#「は」に「ママ」の注記]はめてしまいました。
 留吉は、長い間こがれていた都を見物することも、何か仕事を見つけることも、また昔のお友達を思出《おもいだ》すことも忘れてしまったように見えました。ただもう、どうして、この不幸な帽子と別れたものかと、その事ばかり考えて、知らない街を通《とおり》から通へと歩きつづけるのでした。
 日が暮れて街の人通《ひとどおり》が少《すくな》くなった時分に、留吉は街はずれの汚い一軒の安宿を探しあてました。
「今度はうまくいったぞ」留吉は、宿の二階の窓から、裏の空き地へ帽子を投出しました。それで安心して、その夜はぐっすり眠ってしまいました
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