私《わたし》ははっと顔《かほ》をあげたのです。
お母様《かあさま》は、はしたない行《おこな》ひをおしつつむやうに
「草之助《さうのすけ》さんでござんしたか。ま、おほきくおなりやしたことわい、なんぼにおなりやんしたえ」
「十二です」
「まあそんなになりますかいなあ」と夢《ゆめ》みる眸《まなざし》をあげて「ようまあ、よつてくださんした」
思《おも》ひいつてこういはれた言葉《ことば》に、曾《かつ》ておもひもしらぬ感激《かんげき》をおぼえて、私はしみ/″\とよそのおばさんをみました。歯《は》を黒《くろ》くそめて眉《まゆ》の青《あほ》い人《ひと》で、その眼《め》には泪《なみだ》があつた。
縁側《えんがは》で南天《なんてん》の実《み》をみてゐたら、おばさんはうしろから私《わたし》の肩《かた》を袖《そで》で抱《だ》いて
「おばあさんもおたつしやですかえ」
ときかれた。
千|代紙《よがみ》や江戸絵《えどゑ》をお土産《みやげ》にもらつて、明《あく》る日《ひ》、村《むら》へかへつてきました。
祭《まつり》の日《ひ》が暮《く》れて友達《ともだち》のうちへ泊《とま》つた一分始終《いちぶしヾう》を祖母《ばヾ》に話《はな》してきかせました。すると、祖母《ばヾ》は眼《め》をみはつて、そのかたは父《ちヽ》の最初《まへ》の「つれあひ」だつたと驚《おどろ》かれました。
この日《ひ》から、少年《せいねん》のちいさい胸《むね》には大《おほ》きな黒《くろ》い塊《かたまり》がおかれました。妬《ねた》ましさににて嬉《うれし》く、悲《かな》しさににて懐《なつか》しい物思《ものおもひ》をおぼえそめたのです。蔵《くら》のまへのサボテンのかげにかくれては私《わたし》とおなしに眼《め》のわきに黒子《ほくろ》のある、なつかしいその人《ひと》のことを、人しれず思《おも》ひやるならはせとなつたのです。ですが私《わたし》は、その人《ひと》が私《わたし》の「生《う》みの母《はヽ》」であるといふことをたしかめるのを恐《おそ》れました。やつぱりよそのおばさんです。私は、さう思つてゐねばなりませんでした。
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     窓《まど》のムスメ



中窓《ちうまど》の欄干《てすり》にもたれて雨《あま》だれをみてゐるムスメがあつた。
肩揚《かたあげ》のある羽織《はおり》には、椿《つばき》の模様《もやう》がついてゐた。髪《かみ》はおたばこぼんにゆつてゐたやうに思《おも》はれる。
俯向《うつむ》いてゐたゆえ、顔《かほ》はどんなであつたかそれはわからない。
けれど、五月雨《さみだれ》の頃《ころ》とて、淡青《ほのあを》い空気《くうき》にへだてられたその横顔《よこがほ》はほのかに思《おも》ひうかぶ。
戸外《とのも》にはカリンの木《き》がうはつて、淡紅《うすくれなゐ》の花《はな》の香《か》が暗《くら》い雨《あめ》の庭《には》にたちまよふてゐた。
それが何時《いつ》であつたとも、そのムスメが誰《たれ》であつたとも今《いま》は知《し》るよしもない。
母《はヽ》にきけど、そんな窓《まど》は見《み》たことがないといふ。
姉《あね》にきけど、そのやうなムスメは知《し》らぬといふ。
その頃《ころ》よんだリイダアなどの絵《ゑ》の女《むすめ》かとおもふけれど、それもたしかでない。
ムスメはつひに俯《うつむ》いたまヽ、いつまでも/\私《わたし》の記臆《きおく》に青白《あをじろ》い影《かげ》をなげ、灰色《はいいろ》の忘却《ばうきやく》のうへを銀《ぎん》の雨《あめ》が降《ふ》りしきる。
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     炬燵《こたつ》のなか



 ………お庭《には》のまえの亀岡《かめをか》に
    君《きみ》をはじめてみるときは
    千代《ちよ》もへぬべき心地《ここち》して………

美迦野《みかの》さんは、炬燵布団《こたつぶとん》の綴糸《とぢいと》をまるい白《しろ》い指《ゆび》ではじきながら、離室《はなれ》の琴歌《ことうた》に声《こえ》をあはせた。
「あたしね、「黒髪《くろかみ》」をあげたらこんどは「春雨《はるさめ》」だわ。いヽわね。は る さ め…………」
「……………………」
私《わたし》はだまつて美迦野《みかの》さんの靨《えくぼ》にうつとりとみとれてゐた。
「草之助《さうのすけ》さんてば返事《へんじ》がない、いヽ嫁《よめ》さんでもとつたのかい」
「…………」私《わたし》は笑《わら》つてゐた。
「なぜだまつてるのさ。なにかおこつたの」
「うヽん」
「さ、一がさした」
「二がさした」
「三がさした」
「四がさした」
「五がさした」
「六がさした」
「七がさした」
「蜂《はち》がさした、ぶん/\ぶん………」
「いや、美迦《みか》さんはあんまりひどくつねるんだものな[#「な」は判読困難につき推定、コマ25−左−3]
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