畫をかいてゐることがわかつたからだ。
日露戰爭がすんで四五年した頃だつたから、外國からも新しい畫本がどし/\舶來するやうになつて、先生の不自由はなかつた。その頃獨逸の本の中に日本の浮世繪のことをかいた本があつた。支那を研究したものも、はじめは珍らしかつたが、だんだん、支那や日本の昔のゑかきの中にも、外國人にまけないエライ――ほんたうのエライ人がゐる事がわかり出した。
さうして僕の畫の先生は、ますます殖えていつた。
・その頃の仲間・
その頃僕の畫室に集まつて一所にモデルを雇つて勉強してゐた人に、恩地孝四郎、久本信、小島小鳥、田中未知草、萬代恒志の諸氏がゐた。この中で田中と萬代は前後して死んでしまつた。二十代のもしくは三十歳前後の諸君の兄さんか姉さんは覺えておゐでだらうが、「萬代つねし」はその頃の雜誌に、美しいそしてすばらしくデリケートな「さしゑ」をかいてゐた。その頃やはり「さしゑ」をかいてゐて死んだ宮崎與平も、仲間で、よく一しよに寫生に出かけたものだつた。
その頃は電車の中がいつもがらあきで、寫生するには持つてこいだつた。寫生する畫學生も少なかつたから、誰にも氣づかれずに平氣でやつてゐた。淺草公園やその頃の新橋の停車場などは、人間をかくに最も好いスケツチ場になつてゐた。
姿の好い人の後をつけて、スケツチしながら歩くので、電信柱や人力車と衝突することは度々だつた。淺草へゆくと一日にスケツチ帖を五册位かいたものだ。カルトンを抱へこんで江川の玉乘の二階に、ドガ氣取りで構へ込んで、毎日やつてゐたこともあつた。その頃淺草に木下茂という可愛い少年畫家がゐた。太平洋畫會にゐて、實におもしろい畫をかいたものだつたが、此頃はすつかり日本畫に宗旨變へして未來派じみた畫をかいてゐる。淺草の女を描く事に於ては、木下君に自信もあつたし、みんなも囑望してゐたのだつたが。
漫畫家の山田實君の兄さんに山田清といふ男がゐた。その頃學校の生徒で、素晴しいカラリストで、すてきな美しい芝居の畫をかく天才だつた。生きてゐたら、ちよつと得がたい人だつたらう。
どうも「さしゑ」を描く人は夭逝するやうだ。それにはいろいろな理由もあるだらうが、挿畫家はどの畫家よりも神經を多量に疲勞させることも原因であらうし、この頃はまた殊に、ペンでかくので、白い堅い紙へ金屬をごしごし引かくのが神經系にがりがり響くのも好くないらしい。一面から言へば「さしゑ」は多くロマンテイシストがやるやうだし、また、自然に對し人間に對してすぐれた鋭い感覺と感激を持つたものが、多く「さしゑ」を描くから、得て、さういう人は病身だからとも言へる。
この外にもまだ「さしゑ」をかいて死んだ人が二三人あるが、必要でもないから書くまい。「さしゑ」に較べて油繪や屏風の繪は、遙かにらくだ。心持の使ひ方が全身的で創作の上のまた表現の上の苦しみはまた一倍だが、神經的でなく愉快だ。
私の油繪や水彩や草畫の個人展覽會をやつたのは、今からもう十數年前のことで、第一回は京都の圖書館の樓上だつた。その頃の個人展覽會で一日數千の入場者があつたことは未曾有だつたし、自分の作品を見に來てくれる人に感謝する心持で興奮して、事務室の窓のところから、蒼い秋の空を見ながら、一所にいつてゐた恩地君や田中君と手を握り合つて涙をこぼしたものだつた。あの頃のやうな純粹な心持はもう再び返つては來ないだらう。さう思うと、淋しくもなる。
その折、アメリカの學者で來朝してゐた、ボストンの博物館長キウリン氏が、展覽會を見にきて、畫を買つてくれたり、外國行のことや、博物館を展覽會のために貸してくれる好い條件で、すゝめてくれたが、何だか外國へゆきたくなかつたのでいまだに約束を果さないでゐる。今にしておもへばあの時が最も好い機會だつたのだ。今は、外國で展覽會をよしやつても、あの頃のやうな純粹な感激を持つことは出來ないだらう。
その後、フランスの後期印象派、未來派、三角派などが日本の畫学生に影響を與へた當時の仲間話はあるが、これだけにしておかう。
讀者諸君の中に、將來畫をやらうと思ふなら、私の通つたような道を歩いてはいけない。やはり正規に中學、美術學校にいつて、帝展でも何でも出品して、やはり世間的に表通りを歩いてエラクなる方が好い。裏道は、萬人に向かない。
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青い窓から
無宿の神樣
歌集「寂光」の會のくづれが東洋軒の地下室を出ると、銀座の方へ歩くものと濠端の方へ行くものと二組に別れた。
「君はどちら?」
と誰かゞ聞いた。今夜は何處へいつて泊らうか決つてゐなかつた自分は、ちよつと考へる風をしたが――その實、考へてなんか居なかつたが、
「こつちにせう」
さう言つて濠端の方へゆく一團に加はつた。
「君は此頃何處にゐるんだ」
と自分が彼に肩を並べるとY君が聞いた。何處に住んでゐるんだと彼は聞いたに違ひないのだが、説明がちよつと面倒だから、
「何處にでも」
「ぢや神樣のやうなものだね」
皆は一齊に笑つた。自分も笑つたが、
「今夜は何處へ泊るんだね」
さつきの戲談のつゞきで、
「信ずる者の所へ」
そうは答へたが、何故か笑へなかつた――皆も笑はなかつた。
帝劇の前へ來ると、皆に別れて、濠端を神田橋の方へ歩いた。月があつたのか知ら、二重橋が程好いおぼろの中に明るく見えた。田舍の小學校で善良な生徒であつた頃、讀本の挿繪で見た二重橋の歴史的壯厳の感じを受けた外、今夜のやうに重い美しい均勢を持つた二重橋を見たことはなかつた。明治神宮のどこやらを飾るために畫いたという藤島武二氏の繪を、いつか先生の畫室で見たのを思ひ出す。ちよつとドガの競馬場を思出させるやうな風格のもので、意氣な馬と馬車とシルクハツトを着た御者を前景にした二重橋の風景だつた。二重橋でも繪になるものだな、とその時思つた事だが、今夜は全く別な趣きを持つて見えた。
しかし、無宿の神樣は、ちよつとさう思つたきりで、足をも停めずに暗い濠端の敷石の上を、綱渡りの冒險の快感を、すこしづゝ味ひながら神田橋の方へ歩いた。
いつか藤村氏が「並木」という小説を書いたシーンはこの邊だつたな。あの小説の中だつたかな、何でも年老つて世にはぐれた男と、世に頼りない若い女とが、裏街裏街とさまよひ歩いて、人中へ出れば出るほど寂しくなつて、寄り所のない魂が二つ人目をさけて手をとり合つたことが書いてあつた。
無宿の神樣は、そんな事はどうでも好かつた。折しも後からすばらしいヘビーで駈けて來た電車がいま/\しかつたので、それへ飛び乘つた。「本郷肴町行」まゝよ、肴町なら恰度好い、高林寺へいつておしのの墓へでも詣つてやらうかな。
「やあ、また一所になりましたね」
さつき帝劇の前で別れたS君が乘つてゐる。變にはぐれた心持でS君はしばらく默つてゐたが、
「先頃の旅はどちらでした」ときく。「はゝあ、莊内の方は好いさうですね、女が美しくて」
氣まぐれにおそろしく雄辯になつて自分はしやべつてゐた[#「ゐた」は底本では「ぬた」]。
「莊内は、江戸の文化に影響されずに、浪華・長崎・金谷の港を經て日本海を船で、天平や切支丹がまつすぐに來たんですね。昔から傳つてゐる調度は無論だが、地方の農家で婚禮の時に使ふ簟笥掛だの傘袋だの風呂敷の紺木綿の模樣《デザイン》が、悉く天平物です。女の顏もやはり天平顏ですね。そのくせ男の顏は諸國の影響を受けてゐるせゐか、純粹の大和民族といふ趣はありませんね。ぼくはこゝで降ります」
須田町で降りてぼんやり――さうだ、ぼんやりという姿勢《ポーズ》ではあつたが、なか/\ぼんやりしてはゐなかつた。電車や自動車になど脅かされるのがいま/\しいから、銅像の下へ立つてゐたのだ。いつもこゝを通る時、電車の窓から見えるのは、中佐殿の脚下に見得をきつてゐる何とか曹長の顏だけだが、今夜はつく/″\中佐殿の雄姿も仰ぎ見ることを得た。中佐殿はまだ好いが、曹長の耕されてゐない、何を植えても生えさうもない荒地のやうな、せゝこましい、とても怨めしさうな勇しさは、今にも躍りかゝつて、さうだ何の見わきまへもなく劍附鐵砲で突刺されさうなのであつた。
それから無宿の神樣は、信ずる者の所へいつたであらうか、それを知つてゐるのは、お月樣だけでありました。
山の話
登山會といふ會はどういふことをするのか私は知らないが、多分、人跡未踏の深山幽谷を踏破する人達の會であらう。自分も山へ登る事は非常に好きだが、敢て、高い山でなくとも、岡でも好い。氣に入つたとなると富士山へ一夏に三度、筑波、那須へも二度づゝ登つたが、いつも東京の街を歩くよりも勞れもせず、靴のまゝで散歩する氣持で登れた。その位な登山の經驗で山を語る資格はないのかも知れないが、山は必ずしも登らないでも眺めても、好いものではないだらうか。九州の温泉岳は就中好きな山だつたが、島原町の船の中から望み見た山のたゝずまひは、石濤の畫いた繪そのまゝの、近づきがたい容威と、抱きよせるやうなシヤルムを持つてゐる。誰が名づけたか島原では眉山と呼んでゐる。島原の港を前景にして九十九島の島影に船を浮べて見る眉山は、仰ぐといふほど近くなく、望むといふほど遠くなく、實に程好い麗しさと險しさを持つている。この土地で盆祭りや精靈流しのことも書きたいが山の話に返らう。
海から見る山では、讃岐の象頭山と神戸の摩耶山を思ひ出す、象頭山は十六歳の私、郷里を落ちて九州へゆく時祖父と二人酒船の中から見たのと、神戸の中學へ入學した年、船の中から見た摩耶山は今も忘れないが、今見たらつまらない山かも知れない。しかし紀州灘で見た熊野の連峰や、鳥海山や、彌彦山は今見ても好からうと思はれる。
山は成長するものか、衰退するものか知らないが、文晁の名山畫譜を携へてあの山々を見較べて歩いたら面白からうと思つた事がある。文晁畫譜は彼が初期の作であらうか、非常に寫實に畫いてゐるから、日本畫の弊として筆勢らしいものがいくらか山の特性を失つてゐるかも知れないとしても、克明に寫生して後世に殘したものは有難いと思ふ。
いつの夏であつたか、加賀の白山つゞきの藥王山の麓にある、湯涌という温泉にゐたことがある。ある日曜日に金澤から見舞に來て呉れたN君と、晝飯をすまして宿の二階で、參謀本部の地圖を展げて見てゐると、湯涌村から地圖の上で二三寸山の方へ入るともう路が盡きてゐる。參謀本部の地圖に描いてない位だから人跡未到の地だ。
「一つ探險に出かけませうか」
そんなことを言つて出かけた。
地圖を見ながら、二里――或は三里ともまだ上がらないうちに果して路は盡きてゐる。地圖によると左右に二つばかりの峰を越えて藥王山があるわけだつた。左手の方は白山まで地圖の上で七八寸ある。
「どちらへ行つたものだらう」
獨歩は「武藏野」の中に「路がわからなかつたらステツキを立てゝそれの倒れた方へゆけ」と書いてゐたが、吾々は白山の方へ向つて歩いた。さう書くといよ/\探險らしいが、登山らしい何の用意もなかつたことだし、實は、自分達は湯涌へ流れ落ちてゐる川が、今自分達の歩いている峰の左手は谷にある筈だから、どんなに間違つても川の方へさへ辿りつけば路を迷ふ氣遣はあるまいといふ、用意周到な冒險であつた。
それがN君は、親讓りの時計についた磁石を取出して方向を見たりして、ひとかどの冒險らしく振舞つたことが、その時は、さほどをかしくも不自然だとも思はなかつた。
昨夜からひどく降つた雨も、今朝からすつかり上つたけれど、雨の多い山國の初秋のことで、鼠色の雲が空を閉ざし、白い雨雲が國境の方の峰から走つて來ては、足もとをかすめては谷を越えて、向ふの峰へ飛んでゆくのが、冒險家に一入の風情を添へたのだつた。
一つの峰を越えて次の谷へかゝつた時には、足許がかなり危かつた。雨上りの岩角は滑るし、土の肌の見えないまで落ち積つた枯葉は、ねと/\と靴を没して、歩き辛いこと夥しい。はじめのうちは、珍らしい蕈や、見たこともないやうな草花を寫生したり、採集したりしたが、今はもう、
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