心地よく住んだ日とて所とてないのが思はれる。でも、東京の市内ではどんな大厦高樓を見てもついぞ好ましいと思つた事はないが、田舍で北に山を持ち、南に果樹園、菜園、田畑を持つた白壁の家を見ると、今は人手に渡つて住むべくもない生れ故郷の家屋敷がなつかしまれる、「業もし成らずんば死すとも歸らず」と言つて郷關を出たのだが、そも/\業とは何であつたらう。
ある科學者は、幾千年の後には人類が跡を絶ち、バチルスが代つて地球を支配することを豫言してゐる。ある社會學者は浮世を住みよくするために、命をかけて生活組織を改造しようとしてゐる。住宅の改良といふことも、つまりはそこまで押つめて行かねばなるまい。さてそうなれば、わけもなく住心地よき住宅は自ら造られる時なのだが、それまで待つてゐなくてはならないだろうか。
子供の自由畫という事が事新しく言出されたが、一時やかましかつた自由[#「自由」は底本では「自田」]戀愛、自由結婚とおなじやうに、もつと深いところまで問題にしないで是非曲直をきめてしまつたせゐか、昔ながらに戀は曲者で、結婚は家庭行事だ。必ずしも庭園を公開するだけの意味でなく、自由住宅の時代は來ないものだらうか。ある時代に空想したやうに一輛の馬車に、バイブル一卷、バラライカ一挺、愛人と共に荒野を漂ふジプシーの旅に任しゆく氣輕さは、いまはあまりに寂しい空想である。けれど、煉瓦塀の上にガラスの刄を植ゑた邸宅の如きが凡てなくならない限り、自由住宅の時代は來ないであらう。
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私が歩いて來た道
――及び、その頃の仲間――
旅に出て宿帳を書かされる時、いつも私はちよつとした迷惑を感ずるのが常だ。第一、住所に困る。生地とか生家とかならいつも明確に分つてゐるが、私には住所が東京にも宿屋しかない場合もあるし、日が暮れて宿る所が私にとつてその夜の住所である場合もあるし、「住所なんかないんだよ」と番頭に言つても「ごじようだんでせう」と言つて本當にしない。
姓名も今では生みの親がつけてくれた名より用ひ馴れた方が自分にも人にも通りが好いし、本當らしいから、今では好きでないが使つてゐる。
ところが一番困るのは職業だ。よく日本畫の大家なんか、「美術家」とか「畫伯」とかいつてゐるが、これを自分でかいたのかと思ふと少しをかしい。「ゑかき」も變だし「アーテイスト」「ペインター」もいけない。此頃では「ゑをかくこと」と餘儀なくかいておく。
しかし實を言へば、私は自分で單に「ゑかき」だとも思つてゐない。「ゑかき」といふ商ばいはどうも好きでない。しかし、畫をかくことは好きだし、世の中で爲る事の中では、やはり一番眞劍で深くなつてゆけるし、この道はどの外の道よりも自分に適してもゐるし、幸福だと思つてはゐる。何かしら自分の技能で生活してゆくことも好いし、狹い人間生活のうはつらでうようよしないですむことも愉快だ。
中學を中途でよして、東京へ出たのは十八の夏だつた。内村鑑三氏と安部磯雄氏の演説をきいて、どうしたものかお金持になつて、天才の貧民教育の學校を建てるつもりで、朝鮮へいつてゐるうち、死んだ島村抱月氏に招かれて再度上京して小説家になるつもりで勉強してゐたが、どうも文字で詩をかくより形や色でかいた方が、私には近道のやうな氣がしだして、いつの間にか繪をかくやうになつてしまつた。
二十一の時だつた。私の下宿の近所に大下藤次郎という畫家が住んでゐた。今の新潮社の前身新聲社から「水彩畫の栞」という當時唯一のハイカラの畫の本をその人が書いたのを讀んでゐたのが縁で、描いた畫をもつて訪ねていつた。先生は私の畫を見て、
「私にはわからない、これは岡田君の許へいつたら參考になる話が聞かれるだらう」と言ふのだ。
畫というのは、關口の水車場を描いた「ブロークンミル・アンド・ブロークンハート」(破れた水車と破れた心)といふので、暴風雨の翌日、水車場の水車が壞れて、そこへ水車場の主人が悲しさうな顏をして、水車を見てゐる圖だつた。
岡田三郎助氏はやはり私の畫をわかつてくれられた。私はその時、美術學校へ入つて正則に勉強したい希望を述べると、先生は言はれる。
「美術學校という所は、畫のABCを教へる所だし、生徒をみんな一様に育て上げるのだから君には向かない。向かないばかりでなく、折角君の持つてゐる天分をこはすかも知れない」
「それでは私は勉強しないでもエラクなれませうか?」私はさう言つて訊ねた。
岡田先生は「いや學校の生徒よりもつと勉強しなくてはいけない。自分の傾向に一番ふさはしいデツサンをしつかりやつて自分を自分で育ててゆかなくちやいけない」
「ではどうして、そのデツサンをやりませう」
「どこか自由な研究所へでもゆくと良い」
そんな事で、それから一年後か二年後だつたか
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