人物とおなじ幻想を感じるやうになつて來るのだ。就中、カリガリ博士がサーカスの馬車から逃げ出して病院へ歸る路すがらの風景とあの博士の歩き方は、歩くというより立つたま々で坂をずつと上つてゆく、羽化登仙とでも言ふ走り方は、もの慘いほどはつきり今でも眼の前に浮いて來る。參考のためのスケツチをこ々へ入れておかう。
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    晩春感傷

 聖典に「汝等鼻もて呼吸するものによることをやめよ」とある。なるほどとおもふ。すこしでも複雜な感情をもつた生物ほど、關心の度が深い。小鳥も犬も猫も心遣ひを負擔に感ぜずに飼ふことは出來ない。家族と共にあることさへ心勞に堪へない。家族といつても息子と二人きりだが、つとめてものをいわねばならぬ場合がある。默つてゐることも親子なるがゆゑに苦しいことがある。イエス・ノウだけで用を辨じ、彼女と話すことはまづ稀である。だから女中はゐつかない。息子さへ家にゐることを好まない。
         ○
 たゞこゝに植物ばかりはいくら親しみを加へても心に重みが掛かつて來ない。植物が自分の感覺或は意志を示すには一年の時日を要する。しかしその言葉は明確で非常にデリケエトだ。そして十年後二十年後の長い約束を必ず忘れずに守るのも植物だ。郊外生活五年の間に私はかなり多く植物の感覺について、學ぶことが出來た。もしこの不自然な社會生活から隔離した幸福が興へられるなら、私は植物の如く長生しないとも限らない。
         ○
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ゆく春や重き琵琶の抱き心
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 これは藝術、それは人生という氣がする。この句集はいつのころ讀んだものか赤鉛筆のアンダーラインが引いてある。
         ○
 そのころは、小説をよんでもラブシインの所へくると私かにかくありたいと望んだものだが、絶えて久しくすべて羨望の情が薄らいだ、だが時として小説中の人物とか舞臺の上の人間が煙草に火をつけたりなどすると、つい一ぷくといふ氣になる。このごろ煙草をやめようと志ざしてゐるせゐで、いぢきたなさが一しほなのかもしれない。
         ○
 そのころの學生の習性でたゞ棒讀みに暗誦してゐた修身書の言葉を、何かのふしにふと口にすることがある。そのころは何の實感も批判もなしに朗讀してゐた道義や孝行の教が、今こそはつきり理解出來る。教育がいかに主權者やいはゆる
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