り響くのも好くないらしい。一面から言へば「さしゑ」は多くロマンテイシストがやるやうだし、また、自然に對し人間に對してすぐれた鋭い感覺と感激を持つたものが、多く「さしゑ」を描くから、得て、さういう人は病身だからとも言へる。
この外にもまだ「さしゑ」をかいて死んだ人が二三人あるが、必要でもないから書くまい。「さしゑ」に較べて油繪や屏風の繪は、遙かにらくだ。心持の使ひ方が全身的で創作の上のまた表現の上の苦しみはまた一倍だが、神經的でなく愉快だ。
私の油繪や水彩や草畫の個人展覽會をやつたのは、今からもう十數年前のことで、第一回は京都の圖書館の樓上だつた。その頃の個人展覽會で一日數千の入場者があつたことは未曾有だつたし、自分の作品を見に來てくれる人に感謝する心持で興奮して、事務室の窓のところから、蒼い秋の空を見ながら、一所にいつてゐた恩地君や田中君と手を握り合つて涙をこぼしたものだつた。あの頃のやうな純粹な心持はもう再び返つては來ないだらう。さう思うと、淋しくもなる。
その折、アメリカの學者で來朝してゐた、ボストンの博物館長キウリン氏が、展覽會を見にきて、畫を買つてくれたり、外國行のことや、博物館を展覽會のために貸してくれる好い條件で、すゝめてくれたが、何だか外國へゆきたくなかつたのでいまだに約束を果さないでゐる。今にしておもへばあの時が最も好い機會だつたのだ。今は、外國で展覽會をよしやつても、あの頃のやうな純粹な感激を持つことは出來ないだらう。
その後、フランスの後期印象派、未來派、三角派などが日本の畫学生に影響を與へた當時の仲間話はあるが、これだけにしておかう。
讀者諸君の中に、將來畫をやらうと思ふなら、私の通つたような道を歩いてはいけない。やはり正規に中學、美術學校にいつて、帝展でも何でも出品して、やはり世間的に表通りを歩いてエラクなる方が好い。裏道は、萬人に向かない。
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青い窓から
無宿の神樣
歌集「寂光」の會のくづれが東洋軒の地下室を出ると、銀座の方へ歩くものと濠端の方へ行くものと二組に別れた。
「君はどちら?」
と誰かゞ聞いた。今夜は何處へいつて泊らうか決つてゐなかつた自分は、ちよつと考へる風をしたが――その實、考へてなんか居なかつたが、
「こつちにせう」
さう言つて濠端の方へゆく一團に加はつた。
「君は此頃何處にゐるん
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