し水に二人の名ぞながむ。
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 どこまでも品よく、おつとりと自然の風物に心をよせた所に上方唄の特色はあるやうに見える。最後に、京の女について話を添へてこの稿を結ぶ。
         ○
「……一體京都の女は着物をきるんぢやないんです。たゞ身體に卷きつけるんです。帶の結び方も知らないらしい。祇園あたりの女でも、あつたら上等の帶を、くるりと卷きつけてもつさりと結んでゐるんです。だから着付けがすぐに、くづれて、腰から下にまるで都腰卷をはいたやうな恰好になるんです。
 元來、人間の體の最も效果的《エフエクチーフ》な美しさは、立姿にあるんです。人間が他の動物より進化論的に區別の出來るのは、人間は直立して歩くことが出來るからださうです。どんな動物でも脚を一直線に延長して、足の甲と直角をなす位置で直立することは出来ないさうです。動物は必ず膝を曲げて立つてゐます。「布團着て臥たる姿や東山」全くさうです、山が眠つてゐるやうに京都の女は座つてゐる方が、よほど美しいやうです。それで自然的に、立姿の審美的考察が後れたのかもしれません、だから着物や帶は、素晴しく金の高い代物をつけてゐても下駄だの足袋だのは何でも平氣なんですね。足袋なんぞは一文位足より大きいのを穿いてゐますね。早く切れるからださうです。
 夏になると白つぽい着物の下に黒い襟をかける。私ははじめこれは審美的な、コントラストの美しさを知つてゐるのかと思つて、聞いて見たら夏は襟が汚れるからださうです。
 京都では浴衣を外出する時、決して着ません。浴衣がけで歩く女はよく/\着物のない貧しい女に見られるからださうです。
 ドストエフスキーの本の中に「人間は貧乏なことは恥ぢないが、たゞ物を持つてゐないことを恥ぢる」とあったが、京都では、さうぢやないんです。
 貧乏なことも人間の恥辱であり、持つてゐない事は死ぬより辛いことなんです。だから人間が物を持つためにはどんな手段を盡してさへも平氣なんです。昔から「粥ツ腹」だの「京のお茶漬」つて言ひますが、食物は食はないでも、睛れの日に着る物の一通りは持つてゐないと附合が出來ないんです。だから自分に快適な着物とか、好尚から作った物といふのではなくたゞ「あてかて持つてまつせ」という示威運動の一つにすぎない……。
 ……京都の町の全體としても、大阪の方から來る物質的壓迫と東京の――
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