あの鼻との問答それ自体からわかるように、あいつには少しも神妙なところがないから、今度も先刻と同じ調子で、こんな男とは一面識もないと言い切って、まんまと誤魔化してしまうに違いないからである。そういう訳でコワリョーフは、安寧の府たる警察署へ行くように、馭者に言いつけるばかりになっていたのであるが、急に考えが変って、あのペテン師の悪党野郎はすでに初対面の時からして、あんな図々しい態度をとったほどであるから、いい潮時を見て、まんまと都落ちをしてしまうかもしれない。もしそうなったら、あらゆる捜査も水の泡だ、水の泡でないまでも、まる一ヵ月は長びくだろう、それでは堪《たま》らんと彼は思ったが、やがて天から彼に名案が授けられたようである。これはひとつ、真直ぐに新聞社へ駆けつけて、いち早く、彼奴《きやつ》の特徴を詳細に書いた広告を出すことにしようと肚をきめたのである。そうすれば、誰でも彼奴を見つけ次第、さっそく彼のところへ突き出してくれるなり、少なくとも奴の在所を知らせてくれるに違いない。そう決心すると、彼は馬車屋に、新聞社へ行けと命じて、途中も絶えず「こら、もっと早くやれ! 畜生、もっと急ぐんだ!」と呶鳴りながら、馬車屋の背中を小突きつづけた。馭者は頭《かぶり》を振り振り、「いやはや、この旦那は!」とつぶやいては、まるで*スパニエル犬のように毛のながい馬の背を手綱で鞭打った。ようやく馬車がとまると、コワリョーフはハアハア呼吸《いき》をはずませながら、あまり大きくもない受付室へ駆けこんだ。そこには古びた燕尾服を着て眼鏡をかけた白髪の係員がテーブルに向かって、ペン軸を口にくわえたまま、受けとった銅貨の勘定をしていた。
「広告を受け付ける方はどなたです?」とコワリョーフは呶鳴って、「あ、今日は!」
「はい、いらっしゃい。」そう言って、白髪の係員はちらと眼をあげたが、そのまま又、堆《うずたか》くつまれた銭の山へ視線をおとした。
「ちょと掲載して貰いたいことがあるんですが……」
「どうかしばらくお待ち下さい。」そう言って係員は、片手で紙に数字を記入しながら左手の指で算盤《そろばん》の玉を二つ弾《はじ》いた。モール飾りをつけた、よほど貴族的な家に雇われているらしく小ざっぱりした身なりの従僕が、一枚の書付を手に持ってテーブルの傍に立っていたが、自分の気さくなところを見せるのが礼儀だとでも思ったのか、こんなことを言っている。
「ね、旦那、その狆《ちん》ころといえば、十カペイカ銀貨八枚の値打もない代物ですよ、もっともわっしなら二カペイカ銅貨八枚も出しゃしませんがね、そいつを伯爵夫人の可愛がりようといったら、それあ大変なものでしてね、その小犬を探し出してくれた人には、お礼に大枚百ルーブルだすというのですよ! まったくのところ、現にわっしと旦那とだってそうですが、人間の好き嫌いって奴は実に様々なものですねえ。好きとなったが最後、ポインターだのプードルだのという犬を飼って、五百ルーブルでも千ルーブルでも気前よく投げ出す人がありますが、その代り犬も上物でなけあね。」
 分別くさい係員は大真面目な顔つきで聴き耳を立てながら、それと同時に、提出された原稿の文字が幾字あるかを勘定していた。あたりには皆それぞれ書付を手にした、老婆だの、手代だの、門番だのといった連中が多勢立っていた。その書付には、品行方正なる馭者、雇われたしというのもあれば、一八一四年パリより購入、まだ新品同様の軽馬車、売りたしというのもある。そうかと思うと、洗濯業の経験あり、他の業務にも向く十九歳の女中、雇われたしとか、堅牢な馬車、但し弾機《ばね》一個不足とか、生後十七年、灰色の斑《ぶち》ある若き悍馬《かんば》とか、ロンドンより新荷着、蕪《かぶ》および大根の種子とか、設備完全の別荘、厩《うまや》二棟ならびに素晴しき白樺または樅《もみ》の植込となし得る地所つきといったものも見受けられ、また、古靴底の買手募集、毎晩八時より午前三時まで競売というようなのもあった。すべてこうした連中の押しかけていた部屋は手狭であったため、室内の空気がひどく濁っていた。けれど、八等官のコワリョーフはその臭いさえ感じなかった。というのは、ハンカチを当てていたからでもあるが、第一、肝腎の鼻そのものが、一体どこへ行ったのやら皆目わからない為体《ていたらく》であったからである。
「時に、ぜひひとつお願いしたいのですが……非常に緊急な用事なんでして。」と、とうとう我慢がならなくなって、彼は口を切った。
「はい只今、只今……。二ルーブルと四十三カペイカ也と……。只今すぐですよ!……一ルーブル六十四カペイカ也と!」そう言いながら白髪の紳士は、老婆や門番連の眼の前へ書付を投げ出しておいて、「ところで貴方の御用は?」と、ようやくコワリョーフの方を向い
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