ながら、少佐は肩をすぼめた……)失礼ですけれど、もしもこれを義務と名誉の法則に照らして考えますなら……あなた御自身よくおわかりのことでございましょうが……」
「いや、さっぱりわかりませんねえ。」と、鼻が答えた。「もっとよくわかるように説明して下さい。」
「ね、貴下、」コワリョーフは昂然として言った。「わたくしには、あなたのお言葉をどう解釈していいかわからないのです……。この際、問題は明々白々だと思いますがねえ……それとも、お厭なんで……。だって、あなたは――このわたくしの鼻ではありませんか!」
鼻はじっと少佐を眺めたが、その眉がやや気色ばんだ。
「何かのお間違いでしょう。僕はもとより僕自身です。のみならず、あなたとの間に何ら密接な関係のあるべきいわれがありません。お召しになっている、その略服のボタンから拝察すれば、大審院か、あるいは、少なくとも司法機関にお勤めのはずですが、僕は文部関係のものですからね。」こう言うなり、鼻はくるりと向きを変えて、再び祈祷にうつった。
コワリョーフはすっかりまごついて、はたと言句につまってしまった。【どうしてくれよう?】彼はちょっと考えた。その時、一方から気持のよい婦人の衣《きぬ》ずれの音が聞えて来た。かなり大柄な全身にレースの飾りをつけた、どこかゴチック建築に似たところのある中年の貴婦人が入って来た。それと一緒に、すらりとした姿に大変よく似合った服をつけ、カステーラ菓子みたいにふんわりした卵色のボンネットをかぶった、華奢《きゃしゃ》な娘がやって来た。二人の後では、大きな頬髯をたくわえて、カラーを一ダースもつけていそうな、背の高い紳士が立ちどまって、やおら嗅ぎ煙草入の蓋をあけた。
コワリョーフはつかつかと進み寄って、胸衣の、バチスト麻のカラーを摘み出して形をととのえ、時計につけていた印形《いんぎょう》を直すと、あたりへ微笑をふりまきながら、そのなよなよしい娘の方へじっと注意を凝らした。娘は春さく花のように、わずかに頭を下げると、半ば透きとおるような指をした色の白い手を額《ひたい》へ持っていった。そのボンネットのかげから、娘の頤《あご》の端と頬の一部を見て取ると、コワリョーフの顔の微笑はさらに大きく拡がった。が、その途端に、まるで火傷でもしたように彼は後へ跳び退いた。自分の顔の鼻の位置がまるで空地になっていることを想い出したのである。眼からは涙がにじみ出した。そこで彼は、くだんの紳士に向かって、お前は五等官の贋物だ、お前はペテン師で悪党だ、お前は俺の鼻以外の何者でもないのだと、単刀直入に言ってやろうと心を取り直した……。が、鼻はもう、そこにはいなかった。また誰かのところへ挨拶をしに、まんまと擦りぬけて行ってしまったのだろう。
コワリョーフは会堂の外へ出た。ちょうど好い時刻で、陽はさんさんとして輝いており、ネフスキイ通りは黒山のような人出であった。婦人連も、まるで洪水のように押し流されている。……
おや、彼の知り合いの七等官がやって来る。コワリョーフはこの男のことを中佐中佐と呼んでいた。殊に局外者の前でそう呼んだものである。あ、向こうにカルイジキンの姿も見える。これは大審院の一係長で、彼とは大の親友だが、ボストン・カルタを八人でやると、いつも負けてばかりいる男だ。おや、あすこから、コーカサスで八等官にありついた、もう一人の少佐が、こちらへ手を振っておいでおいでをやっている……。
【ちぇっ、くそ喰えだ!】コワリョーフはこう呟いてから、「おい、辻馬車! まっすぐに警察部長のところへやれ!」
コワリョーフは馬車に乗り込むと、「全速力でやれ!」と、ひたすら馭者をせきたてた。
「警察部長は御在宅ですか?」と、玄関へ入るなり彼は呶鳴った。
「いや、おいでになりませんよ。」という玄関番の答えだ。「たった今お出かけになったばかりで。」
「さあ、困ったぞ!」
「はい、まったく、」と玄関番はつけ加えた。「それもつい今しがたお出かけになりましたので。もう、ほんの一分も早ければ、御面会になれたかもしれませんのに。」
コワリョーフはハンカチを顔にあてたまま、馬車に乗りこむと、自暴《やけ》くそな声で「さあ、やれ!」と呶鳴った。
「どちらへ?」と馬車屋が訊ねた。
「真直ぐに行け!」
「え? 真直ぐにね? だってここは曲り角ですぜ。右へですか、それとも左ですか?」
この問いがコワリョーフの心を制して、再び彼を考えさせた。かような事態に立ち至ったかぎりは、さしあたり治安の府に訴えるのが順当であった。というのは、直接これが警察に関係のある事件だからというよりも、警察の手配が他のどこよりもはるかに敏速に行なわれるからであって、鼻が勤めていると言った役所の手を経て満足な結果を期待しようなどとは、まったく沙汰のかぎりで、すでに
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