狂人日記
ZAPISKI SUMASHEDSHAWO
ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli
平井肇訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)面《つら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三百|留《ルーブリ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔ma《マ》 che`re《シェール》〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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十月三日
けふといふ日にはずゐぶん變なことがあつた。朝、起きたのはかなり遲かつたが、マヴラが長靴の磨いたのを持つて來た時、いま何時だと訊いた。すると、もうとつくに十時を打ちましたとの答へに、おれは大急ぎで身じまひをした。正直なところ、役所へなんかてんで行きたくはないのだ。行けば、きつと課長の奴が澁い面《つら》をしやがるにきまつてゐる。奴はもうこの間ぢゆうからおれの顏さへ見ればこんなことを言やあがるんだ――『君は一體どうしたといふんだ、まるで頭が混亂してるやうぢやないか? どうかすると、毒氣にでもあてられたやうにふらふらしてるし、時々、書類の表題に小文字をつかつたり、日附や番號を全然いれなかつたり、何が何やらさつぱり譯のわからないものにしてしまふぢやないか。』なんて。忌々しい蒼鷺野郎め! あれあ屹度このおれが局長の官邸でお書齋に坐つて、閣下の鵞鳥《ペン》を削つてゐるのが羨ましいんだらう。なあに、おれはあの會計係に逢つて、あの吝嗇坊《けちんばう》野郎を拜みたほして、あはよくば幾何《なにがし》か月給の前借《まへがり》をする期待《あて》でもなかつたなら、どうして役所へなんぞ行つてやるものか。ところが、あの會計係がどうしてどうして、一筋繩でゆく代物ぢやあないて! つひぞあん畜生が一月分だつて月給の前借《まへがり》をさせた例しがあるかい――それよりやあ、最後の審判の來るのを待つた方がましなくらゐだ。どんなにせがんだつて、こちらがいくら困つてゐたつて――あの白髮頭の惡魔め、前借なんぞさせることぢやない。そのくせ自宅《うち》では自分とこの料理女に頬桁を叩かれてゐくさるのだ。それはもう世間で誰ひとり知らぬものがない。まつたく本局勤めなんてどこが好いだらう――うまい儲け口なんか一つとしてありやしない。そこへいくと、縣廳だの、區役所だの、支金庫だのになるとがらりと樣子が變つて來る。例へば、隅つこの方にちぢこまるやうにして、何か書きものをしてゐる穢《むさ》い安フロックにくるまつた先生だが、その御面相を見れば唾でもひつかけてやりたいくらゐだが、どうしてどうして、あれで素晴らしい別莊を借りたりしてゐるのだ! こんな先生のところへ金ぴかの陶磁器の茶碗なんぞ持つて行くものではない。『これあ、まるで竹庵先生への手土産だね。』と仰つしやる。まあ持つて行くなら、※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]馬を二頭とか、彈機附馬車を一臺とか、それとも三百|留《ルーブリ》もする獵虎の毛皮でも仕入れて行くことだ。見かけは實に物靜かで口のきき方なども誠にやさしく、『鵞筆《ペン》を削るナイフをちよつと拜借いたしたいのでございますが。』などといふ調子なんだが、これがどうして、何か頼みこんで來る請願人と見れば、きれいに剥いて襯衣一枚にしてしまふのだ。尤もその代りこちとらの勤めむきは上品なもので、萬事にかけて清潔なことは金輪際、縣廳などでは見られたものでなく、卓子《テーブル》は桃花心木《マホガニイ》製だし、上役だつてみんな、『あなた』言葉だ……。まつたく正直なところ、勤めでもこのとほり上品でなかつたら、おれはとつくの昔に役所なんか退いてしまつてゐるんだが。
おれは古いマントを着て洋傘《かさ》をさした。何しろ、ひどい土砂降りなんだ。街には人つ子ひとり通つてゐない。ときたま眼につくのは、着物の裾をまくりあげて頭からかぶつた女房《かみさん》か、洋傘《かさ》をさした小商人か、使丁ぐらゐが關の山だ。高等な人間では、わづかにこちとら仲間の官吏を一人見かけた位のものだ。その男には四つ辻で出會つたのだが、おれはその男を見ると直ぐにかう獨り呟やいたものだ。『へつ! 措きやあがれ、あん畜生、役所へ行くやうな振りをして、その實あすこへ駈けてゆく女の子の後を追つて、あの娘《こ》のおみあし拜見といふ下心なんだ。』どうしてわれわれ役人仲間はかう不良ばかりだらう! まつたく、どんな士官にだつて、ひけを取りはせん。帽子をかぶつた女が通りさへすれば、必らず、小當りにあたつてみるのだ。こんなことを考へながら、ふと氣がつくと、おれが前へさしかかつてゐた或る商店の店先へ一臺の馬車がぴつたり停つた。おれには直ぐに、その馬車がうちの局長の乘用車だといふことがわかつた。『しかし局長が買物などに出られる筈はない。』さうおれは考へた。『屹度これあ、お孃さんに違ひない。』おれは咄嗟に壁へぴつたりと體を擦りよせた。從僕が扉をあけると、令孃はまるで小鳥のやうに身輕にひらりと馬車から降り立たれた。ちよつと右左を御覽になる、その度ごとにお眉とお眼がちらほらと……ちえつ、なまんだぶ、おれはもう助からん、金輪際、助かりつこない! それはさうと、なんだつてまたこんな雨降りにお出ましになつたんだらう! 成程これで、女つてものはどこまで襤褸つ切れに眼がないかつてことがわかる。令孃はおれには氣がつかれないやうだつた。それにおれの方でも故意《わざ》と、なるべく深くマントにくるまるやうにしてゐたのだ。何しろ、おれのマントはひどく汚れてはゐるし、それに型が至つて舊式だからなあ。今は襟の長い外套がはやつてゐるのに、おれのは襟が短かくてダブルになつてをり、生地だつてまるきり湯熨がしてないんだ。令孃の小犬が店の中へはいりぞこねて往來にまごまごしてゐる。おれはこいつをよく知つてゐる。メッヂイといふ犬だ。さて、ほんの一分もたつかたたないところでおれはふと、とても優しい聲を耳にした――『あら今日は、メッヂイさん!』おや、おや、おや! いつたい誰の聲だらう? 振りかへつて見ると、洋傘《かさ》をさして行く二人の婦人が眼についた。一人はお婆さんで、もう一人の方は若い娘だ。その二人はもう行き過ぎてしまつたのに、おれの傍でまた、こんなことをいふ聲がする。『メッヂイさん、あんたひどいわよ!』はつて、面妖な! 見れば、メッヂイが例の婦人たちについて來た小犬と鼻を嗅ぎあつてゐるのだ。『ひえつ!』と、おれは思はず肚の中で驚ろいた。『いや待てよ、おれは醉拂つてるのぢやないかしら! どうも、こんなことにぶつかるのはめづらしいことだ。』――『ううん、フィデリさん、さうぢやないのよ。』さう言ふのだ。――おれはメッヂイがさう言ふのを、この眼でちやんと見屆けたのだ。『あたしねえ、くん、くん、あたしねえ、くん、くん、くん、とつてもひどい病氣だつたのよ!』ひえつ! こいつめ、犬の癖に……いや、まつたくのところ、そいつが人間のやうに物をいふのを聽いた時には、おつ魂消てしまつたて。だが、後でよくよく考へて見れば、別に魂消るほどのことでも何でもなかつた。實際、こんなやうなことは世間にはざらにあることなんだ。何でも、英吉利では一尾の魚が浮きあがつて、變挺な言葉で二言《ふたこと》ものを言つたのを、學者がもう三年越し一生懸命に研究してゐるさうだが、未だに何のことだかさつぱり分らないといふ話だ。また、これも新聞で讀んだのだが、二匹の牛が店へやつて來て、お茶を一斤くれと言つたといふ話もある。だが正直なところ、メッヂイが次ぎのやうなことを言つた時には、おれもまつたく魂消てしまつた。『あたしねえ、フィデリさん、あんたにお手紙を差しあげたのだけれど、ぢやあ屹度うちのポルカンがあたしの手紙をお屆けしなかつたのねえ!』ちえつ、驚ろいたね! おれはつひぞこの年になるまで、犬が手紙を書くなんてことは聞いたこともないわい。文章が正確に書けるのは貴族だけの藝當だ。尤も、中には商店の帳つけや、農奴階級のうちにだつて、どうかすると、文章を書く手合がないでもないが、しかしあの手合の書くのは大抵機械的で、句點もなければ、讀點もなく、てんで文體になつてやしないのだ。
これには全く驚いた。だが實を言へば、近頃おれには時々、他人《ひと》には聞いたり見たり出來ないやうなことが、よく見えたり聞えたりするのだ。『ようし』とおれは肚の中でうなづいた。『ひとつ後をつけて行つて、あの犬ころの素性を突きとめて、一體あいつがどんなことを考へてゐるやがるか、調べあげてくれよう。』そこでおれは洋傘《かさ》をひろげて、二人の婦人の後について歩き出した。二人はゴローホワヤ街へ通り拔けると、メシチャンスカヤ街へ曲り、そこからストリャールナヤ街へ出て、コクーシュキン橋にかかる手前で、やつと大きな家の前で立ちどまつた。『この家なら知つてるわい』と、おれは口の中で呟やいた。『ズヴェルコフの持家だ。』まつたく素敵もない家だ! 凡そここに住んでゐない種類の人間はない――料理女やお上り連がどのくらゐゐることか! こちとら仲間の官吏にいたつては、まるで犬ころのやうにうじやうじやと重なりあつて、押しあひへしあひだ。おれの友達が一人ここに住んでゐるが、そいつは喇叭の名人だ。くだんの婦人連は五階へあがつて行つた。『これでよし。』とおれは考へた。『今は入らなくてもかうして居所さへつきとめておけば、いざといふ時には、ちやんと役にたつからなあ。』
十月四日
今日は水曜日だから、局長の官邸の方へ出むいた。故意《わざ》と早めに行つて、ゆつくり坐りこんで鵞筆《ペン》を殘らず削りあげた。うちの局長はよほど賢い人に違ひない。書齋ぢゆう、本のぎつしりつまつた書棚で一杯だ。二つ三つ、本の表題を讀んでみたが、どれもこれも小難かしいものばかりで、こちとら風情にはてんで寄りつけさうもない――佛蘭西本や獨逸本の原書ばかりだ。何しろ局長は、顏を見ただけでも、ちやんとその眼中に何かしら威嚴がそなはつてゐる。つひぞ局長が無駄口を叩かれたのを聞いたことはないからなあ。書類でも差し出す時に、かう訊ねられるぐらゐのものだ――『天氣はどうだね?』――『は、どうもじめじめしたお天氣でございまして、閣下!』何にしても、われわれ風情の敵ではない! 要路の大官に違ひない。――だが、どうやらこのおれが格別お氣に召してゐるらしいて。もし萬一、御令孃の方もその……ええ、畜生!……いや、なんでもない、なんでもない、内證、内證! と。――『蜂《プチエラ》』を讀む。佛蘭西人つて奴は何といふ馬鹿だらう! いつたい何をたくらんでるのだらう? 皆んなひつからげて、笞でぴしぴしひつぱたいてくれるといいんだ! やはりその雜誌で大變面白い舞踏會の記事を讀んだが、何でもクールスカヤ縣の地主の書いたものだつた。クールスカヤ縣の地主連はなかなか味な文章を書きをる。その後でふと氣がつくと、もう十二時半を打つてゐたが、閣下は未だに寢室からお出ましにならない。ところが、一時半ごろ、とても筆紙にはつくし難い大事件が持ちあがつた。扉がぱつと開いたので、そら局長だとばかりに、おれは書類を持つて椅子から跳びあがつたが、それがあの方なんだ、御令孃なのさ! いや、どうも、その服裝のあでやかさといつたら! お召物はまるで白鳥のやうに眞白なやつで――ふう、そのきらびやかさといつたら! こちらをちらと御覽になつた時には――まるで太陽に射られたやうに眩《まぶ》しかつた! まつたく太陽に射られたやうにさ! お孃さんはちよつと會釋を遊ばされて、『あの、父《パパ》はこちらにをりませんでして?』と仰つしやる。いやはや、どうも! 玉をこ
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