うか? おれは何ひとつ持つてやしない。これではもうもうとても堪らん、かう酷い目にあはされては我慢が出來ん。頭がかつと燃えるやうで、眼の前の物がぐるぐる※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]る。助けてくれい! 連れてつてくれい! 疾風《はやて》のやうによく走る三頭立の馬をつけてくれい! さあさ馭者も乘つたり、鈴も鳴れ、馬も元氣に跳ねあがり、世界の果てまで連れ出してくれ! 何もかも見えなくなるまでどんどん走れ。さあさ、もつと遠くへとつとと駈けろ。あれあれ、空があすこへ舞ひあがり、遠くの方では星がきらきら光つてる。森が黒い樹と飛びや月も走る。足もとには銀鼠の霧が棚びき、霧の中では絃の音《ね》がする。片方には海がひろがり、片方には伊太利が見える。あれ、向ふの方に露西亞の百姓家が見えてゐる。あの青ずんで見えるのはおれの生家《うち》ではないか? 窓に坐つてゐるのはお袋ではないか? お母さん、この哀れな伜を助けて下さい! 惱める頭にせめて涙でも一|滴《しづ》くそそいで下さい! これ、このやうに酷《むご》い目にあはされてゐるのです! その胸に可哀さうなこの孤兒《みなしご》を抱きしめて下さい! 廣い世の中に身の置きどころもなく、みんなから虐《いた》めつけられてゐるのです!……お母さん、この病氣の息子を憐れんで下さい!……ええとアルジェリアの總督の鼻の下に瘤のあるのを御存じかね?
[#地から2字上げ]――一八三四年作――
底本:「狂人日記」岩波文庫、岩波書店
1937(昭和12)年6月15日発行
1938(昭和13)年1月30日第3刷発行
※底本中、外国語の説明に使われた括弧の中は、割り注になっています。
※以下のルビ中の拗音、促音などを、小書きしました。「新聞雜誌關係者《ジャーナリスト》」「諷刺詩《クプレット》」「技巧《トリック》」「甘藍《キャベツ》」「芬蘭《フィンランド》」「〔ma《マ》 che`re《シェール》〕」「栗色髮《ブリュネット》」「襟飾《ジャボー》」「肩章《エポレット》」「猶《ジュウ》」「柄附眼鏡《ロルネット》」
入力:高柳典子
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年11月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作ら
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