もしないで、奴を尻眼にかけたまま、まるで誰にも氣がつかないやうな素振りで自分の席にどつかり腰をおろした。それから一通りへぼ役人たちを見渡して肚の中で考へたものだ――『知らぬが佛だけれど、貴樣たちのあひだに坐つてゐる、このおれの身分が分つたものなら?……』さぞかし、どえらい騷ぎが持ちあがらうて! まづ第一に課長からして、常づね局長の前でやるやうにおれに向つて平身低頭するだらうなあ。そんなことを思つてゐると、拔萃をつくれと言つて何か書類を鼻の前《さき》へ突きつけやがつたけれど、おれは指も觸れなかつた。そのうちに一同があたふたとざわつき出して、局長の御出勤だといふ。へぼ役人どもはみんな、局長のお眼鏡にとまりたさが一杯で先を爭つて駈け出して行つたが、おれは一寸も席を動かなかつた。局長がおれたちの事務室を通り拔ける時も、みんなは衣紋を正したけれど、おれは平氣な顏ですましてゐたつけ! 局長が何だい? あんな奴の前で起立するなんて眞平御免さ! あんなものがどうして局長なもんか! 奴あ局長ぢやなくつて、コロップさ。ありふれた、普通《ただ》のコロップで、壜の栓になるより他には何の役にも立たない代物さ! 何より面白かつたのは、おれに署名をさせようとして書類を差しだしやあがつた時だ。奴等はおれが紙面の端つこに主任、何某と型の如く記名するものと思つてゐたらしいが――さうは問屋が卸さないや! おれは局長がいつも署名することになつてゐる肝腎かなめなところへ持つて行つて、※[#始め二重括弧、1−2−54]フェルヂナンド八世※[#終り二重括弧、1−2−55]と書きなぐつてやつたものさ。さうするとどうだらう、あたりがしいんとしづまつて、どいつもこいつも鞠躬如として鳴りをひそめてしまつたぢやないか。そこでおれはちよつと手を擧げて、『いやなに、警蹕《けいひつ》には及ばん!』と言つて、さつさと戸外《そと》へ出てしまつた。おれはその足で眞直に局長の邸へ※[#「えんにょう+囘」第4水準2−12−11]つた。局長は不在だつた。取次に出た下男め、はじめは通すまいとしたけれど、おれが一言たしなめると恐れ入つてしまつたから、その隙にずんずん化粧室へ闖入してやつた。局長の娘は姿見の前に坐つてゐたが、矢庭に跳びあがつて、おれの前で後ずさりをし始めた。だがおれは、西班牙の國王だといふことは明さないで、ただ、かう言つて聞かせ
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