く、どんな士官にだつて、ひけを取りはせん。帽子をかぶつた女が通りさへすれば、必らず、小當りにあたつてみるのだ。こんなことを考へながら、ふと氣がつくと、おれが前へさしかかつてゐた或る商店の店先へ一臺の馬車がぴつたり停つた。おれには直ぐに、その馬車がうちの局長の乘用車だといふことがわかつた。『しかし局長が買物などに出られる筈はない。』さうおれは考へた。『屹度これあ、お孃さんに違ひない。』おれは咄嗟に壁へぴつたりと體を擦りよせた。從僕が扉をあけると、令孃はまるで小鳥のやうに身輕にひらりと馬車から降り立たれた。ちよつと右左を御覽になる、その度ごとにお眉とお眼がちらほらと……ちえつ、なまんだぶ、おれはもう助からん、金輪際、助かりつこない! それはさうと、なんだつてまたこんな雨降りにお出ましになつたんだらう! 成程これで、女つてものはどこまで襤褸つ切れに眼がないかつてことがわかる。令孃はおれには氣がつかれないやうだつた。それにおれの方でも故意《わざ》と、なるべく深くマントにくるまるやうにしてゐたのだ。何しろ、おれのマントはひどく汚れてはゐるし、それに型が至つて舊式だからなあ。今は襟の長い外套がはやつてゐるのに、おれのは襟が短かくてダブルになつてをり、生地だつてまるきり湯熨がしてないんだ。令孃の小犬が店の中へはいりぞこねて往來にまごまごしてゐる。おれはこいつをよく知つてゐる。メッヂイといふ犬だ。さて、ほんの一分もたつかたたないところでおれはふと、とても優しい聲を耳にした――『あら今日は、メッヂイさん!』おや、おや、おや! いつたい誰の聲だらう? 振りかへつて見ると、洋傘《かさ》をさして行く二人の婦人が眼についた。一人はお婆さんで、もう一人の方は若い娘だ。その二人はもう行き過ぎてしまつたのに、おれの傍でまた、こんなことをいふ聲がする。『メッヂイさん、あんたひどいわよ!』はつて、面妖な! 見れば、メッヂイが例の婦人たちについて來た小犬と鼻を嗅ぎあつてゐるのだ。『ひえつ!』と、おれは思はず肚の中で驚ろいた。『いや待てよ、おれは醉拂つてるのぢやないかしら! どうも、こんなことにぶつかるのはめづらしいことだ。』――『ううん、フィデリさん、さうぢやないのよ。』さう言ふのだ。――おれはメッヂイがさう言ふのを、この眼でちやんと見屆けたのだ。『あたしねえ、くん、くん、あたしねえ、くん、くん、くん、
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