あの白髮頭の惡魔め、前借なんぞさせることぢやない。そのくせ自宅《うち》では自分とこの料理女に頬桁を叩かれてゐくさるのだ。それはもう世間で誰ひとり知らぬものがない。まつたく本局勤めなんてどこが好いだらう――うまい儲け口なんか一つとしてありやしない。そこへいくと、縣廳だの、區役所だの、支金庫だのになるとがらりと樣子が變つて來る。例へば、隅つこの方にちぢこまるやうにして、何か書きものをしてゐる穢《むさ》い安フロックにくるまつた先生だが、その御面相を見れば唾でもひつかけてやりたいくらゐだが、どうしてどうして、あれで素晴らしい別莊を借りたりしてゐるのだ! こんな先生のところへ金ぴかの陶磁器の茶碗なんぞ持つて行くものではない。『これあ、まるで竹庵先生への手土産だね。』と仰つしやる。まあ持つて行くなら、※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]馬を二頭とか、彈機附馬車を一臺とか、それとも三百|留《ルーブリ》もする獵虎の毛皮でも仕入れて行くことだ。見かけは實に物靜かで口のきき方なども誠にやさしく、『鵞筆《ペン》を削るナイフをちよつと拜借いたしたいのでございますが。』などといふ調子なんだが、これがどうして、何か頼みこんで來る請願人と見れば、きれいに剥いて襯衣一枚にしてしまふのだ。尤もその代りこちとらの勤めむきは上品なもので、萬事にかけて清潔なことは金輪際、縣廳などでは見られたものでなく、卓子《テーブル》は桃花心木《マホガニイ》製だし、上役だつてみんな、『あなた』言葉だ……。まつたく正直なところ、勤めでもこのとほり上品でなかつたら、おれはとつくの昔に役所なんか退いてしまつてゐるんだが。
 おれは古いマントを着て洋傘《かさ》をさした。何しろ、ひどい土砂降りなんだ。街には人つ子ひとり通つてゐない。ときたま眼につくのは、着物の裾をまくりあげて頭からかぶつた女房《かみさん》か、洋傘《かさ》をさした小商人か、使丁ぐらゐが關の山だ。高等な人間では、わづかにこちとら仲間の官吏を一人見かけた位のものだ。その男には四つ辻で出會つたのだが、おれはその男を見ると直ぐにかう獨り呟やいたものだ。『へつ! 措きやあがれ、あん畜生、役所へ行くやうな振りをして、その實あすこへ駈けてゆく女の子の後を追つて、あの娘《こ》のおみあし拜見といふ下心なんだ。』どうしてわれわれ役人仲間はかう不良ばかりだらう! まつた
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