らいが関の山であったから、役人の幽霊はカリーンキン橋の向こう側へさえ姿を現わすようになって、あらゆる臆病な人々に多大の恐怖を抱かせたものである。それはさて、われわれはこの徹頭徹尾真実な物語が、幻想的傾向を取るに至った、事実上の原因といっても差支えないくだんの有力者のことをまったく等閑に付していた。第一に公平という義務観念の要求によって述べなければならないのは、哀れなアカーキイ・アカーキエウィッチがめちゃくちゃに叱り飛ばされて、すごすご立ち去ってから間もなく、例の有力者は何かしら悔恨に似た感じを抱いたということである。彼とてもけっして血も涙もない人間ではなかった。ともすれば、官位がそれを表白することを妨げがちであったとはいえ、彼の胸奥にも多くの善心が潜んでいたのである。遠来の友が彼の書斎を出て行くや否や、彼はアカーキイ・アカーキエウィッチのことをじっと考えこんだほどであった。そしてその時以来、ほとんど毎日のように、職責上の叱責にすら耐え得なかったあのアカーキイ・アカーキエウィッチの青ざめた顔が彼の眼前に浮かんだ。あまりにもその官吏のことが気になってならないので、一週間ほど後、彼は思いきって、あの男はどうしたろう、どんな様子だろう、また実際、何とか彼を援助してやれないものだろうかと、それを知るために下役を出むかせたほどである。が、やがてアカーキイ・アカーキエウィッチが熱病で急逝したという報告がもたらされると、彼はがく然として驚き、良心の苛責を感じて、終日怏々として楽しまなかったほどである。彼は少しでも心をまぎらして不快な印象を免れたいものと考えて、ある友人の家の夜会へ出かけていったが、そこには相当の人数が集まっており、なおさいわいなことに、それがいずれもほとんど自分と同等の身分の者ばかりであったので、彼は少しも固苦しい思いをする必要がなかった。そのことが彼の精神状態に驚ろくべき作用をあたえた。彼は打ちくつろぎ、気持よく談笑して、にこにこと愛想もよかった――一言にしていえば、一夕を非常に愉快に過したのである。晩餐の席ではシャンパンを二杯傾けたが、これは周知の通り上機嫌になるには持って来いの薬である。このシャンパンが彼にいろんな突飛な気分を沸き立たせた。そこで彼は、まだ家へは真直に帰らないで、かねて馴染《なじみ》の婦人のところへ立寄ろうと肚をきめたのである。それはどうやらドイツ生まれらしいカロリーナ・イワーノヴナという女で、彼がことのほかねんごろな情意を寄せている相手であった。断わっておかねばならないが、この有力者はもうけっして若いほうではなく、よき良人であり、尊敬すべき一家の父でもあった。二人の息子のうち一人はすでに役所づとめをしていたし、いくぶん反《そ》り気味ではあったが、なかなか美しい鼻を持った十六になる愛くるしい娘もあって、彼らは毎朝、「|お早よう《ボンジュール》、パパ」と言いながら彼の手を接吻しに来た。夫人はまたみずみずしくて、きりょうもけっして悪くないほうであったが、まず自分の手を与えて良人に接吻させ、そのまま裏返して今度は良人の手に接吻するのだった。しかしこの有力者は、こうした幸福な家庭生活にすっかり満足していながらも、ねんごろな関係の女友だちを一人ぐらい都の他の一角に囲っておくのは妥当なことだと考えた。その女友だちは彼の細君にくらべてそれほど美しくもなければ、若くもなかったが、これは世間にはざらにあることで、こんな問題をうんぬんすることはわれらのあずかり知るところではない。で、くだんの有力者は階段を降りて、橇《そり》に乗ると、「カロリーナ・イワーノヴナのところへ!」と馭者に命じておいて、自分はじつにふっくらと温かい外套にくるまると、ロシア人にとってとうていこれ以上のことは考え出されないくらい愉快な状態、つまり自分では何ひとつ考えようともしないのに、一つは一つより楽しい思いがひとりでに浮かんできて、こちらからそれを追っかけたり捜し求めたりする面倒はさらさらないといった状態に身を委せたのである。すっかり満足しきった彼は、今すごして来たばかりの夜会のあらゆる愉快な場面や、少人数のまどいをどっとばかりに笑わせたいろんな言葉をそこはかとなく思い出した。そして、それらの言葉の多くを声に出して繰り返してみたりさえしたが、それがやはり先刻のとおりいかにもおかしく思われたので、彼が自分でも肚の底からふきだしてしまったのもけっして不思議ではなかった。とはいえ、その境地も時おり、どこからどういう仔細があってとも知れずに、だしぬけにどっと吹き起こる突風のために妨げられた。風は彼の顔へまともに吹きつけて、雪の塊りを叩きつけたり、外套の襟を帆のように吹きはらませるかと思うと、たちまち超自然的な力でそれを首のまわりへ捲きあげたりしたため、彼は絶えず
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