イツ生まれらしいカロリーナ・イワーノヴナという女で、彼がことのほかねんごろな情意を寄せている相手であった。断わっておかねばならないが、この有力者はもうけっして若いほうではなく、よき良人であり、尊敬すべき一家の父でもあった。二人の息子のうち一人はすでに役所づとめをしていたし、いくぶん反《そ》り気味ではあったが、なかなか美しい鼻を持った十六になる愛くるしい娘もあって、彼らは毎朝、「|お早よう《ボンジュール》、パパ」と言いながら彼の手を接吻しに来た。夫人はまたみずみずしくて、きりょうもけっして悪くないほうであったが、まず自分の手を与えて良人に接吻させ、そのまま裏返して今度は良人の手に接吻するのだった。しかしこの有力者は、こうした幸福な家庭生活にすっかり満足していながらも、ねんごろな関係の女友だちを一人ぐらい都の他の一角に囲っておくのは妥当なことだと考えた。その女友だちは彼の細君にくらべてそれほど美しくもなければ、若くもなかったが、これは世間にはざらにあることで、こんな問題をうんぬんすることはわれらのあずかり知るところではない。で、くだんの有力者は階段を降りて、橇《そり》に乗ると、「カロリーナ・イワーノヴナのところへ!」と馭者に命じておいて、自分はじつにふっくらと温かい外套にくるまると、ロシア人にとってとうていこれ以上のことは考え出されないくらい愉快な状態、つまり自分では何ひとつ考えようともしないのに、一つは一つより楽しい思いがひとりでに浮かんできて、こちらからそれを追っかけたり捜し求めたりする面倒はさらさらないといった状態に身を委せたのである。すっかり満足しきった彼は、今すごして来たばかりの夜会のあらゆる愉快な場面や、少人数のまどいをどっとばかりに笑わせたいろんな言葉をそこはかとなく思い出した。そして、それらの言葉の多くを声に出して繰り返してみたりさえしたが、それがやはり先刻のとおりいかにもおかしく思われたので、彼が自分でも肚の底からふきだしてしまったのもけっして不思議ではなかった。とはいえ、その境地も時おり、どこからどういう仔細があってとも知れずに、だしぬけにどっと吹き起こる突風のために妨げられた。風は彼の顔へまともに吹きつけて、雪の塊りを叩きつけたり、外套の襟を帆のように吹きはらませるかと思うと、たちまち超自然的な力でそれを首のまわりへ捲きあげたりしたため、彼は絶えず
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