ており、その背後の、隣室の扉口から、頬髯を生やして唇の下にちょっぴりと美しい三角髯をたくわえた男が顔をのぞけているところが描いてあった。アカーキイ・アカーキエウィッチは首を一つ振ってにやりとすると、まためざす方へと歩きだした。いったいなぜ彼はにやりとしたのだろう? まだ一度も見たことはなくても、何人もがあらかじめそれについてある種の感覚をそなえているところの物件に邂逅《かいこう》したがためだろうか? それとも、ほかの多くの役人たちと同じように、【いや、さすがはフランス人だ! まったく一言もない! 何か一つ思いついたが最後、それはもう、実にどうも!……】とでも考えてのことだろうか?
 いやあるいはそんなことも考えなかったのかもしれない。なにしろ他人の肚《はら》の中へ入りこんで、考えていることを残らず探り出すなどということはできない相談である。さて、アカーキイ・アカーキエウィッチはついに、課長補佐が住いを構えている家へとたどりついた。課長補佐はなかなか豪奢な暮しをしていた。住いは二階で、階段にはあかあかと、あかりがついていた。控室へ入ると、その床にごたごたと並んだオーバーシューズの列がアカーキイ・アカーキエウィッチの目に映った。それにまじって、部屋の中央にはサモワールがしゅうしゅういいながらさかんに湯気を吹き出していた。壁には、いろんな外套やマントが、ずらりとかかっていたが、その中には猟虎《らっこ》の襟のついたのや、ビロードの折り返しのついたのもまじっていた。壁のむこうで、ざわめく音や話し声が聞えていたが、扉があいて従僕が盆に空《から》のコップやクリーム入れやラスクの籠をのせて出て来た時には、それが急にはっきりと聞こえだした。明らかに役人たちはもうとっくに集まっていて、まず最初のお茶を一ぱいずつ飲み乾したところらしい。アカーキイ・アカーキエウィッチが自分で外套をかけて、その部屋へ入ると、彼の目の前にはローソクの灯と、役人連と、パイプと、カルタのテーブルが一時にぱっと閃めき、四方八方から起こる矢つぎばやの話し声や、椅子を動かす音が雑然と彼の耳朶《みみたぶ》を打ってきた。彼はどうしたらいいかに思い惑いながら、ひどくぎごちなく部屋の真中に立ちすくんでしまった。ところが、はやくもその姿を認めた一同は、わっと歓声をあげて彼を迎えると、さっそく控室へ駆けだして、またもや、ためつすが
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