く気もつかず、いつの間にか、もう役所へ着いていた。守衛室で外套を脱ぐと、それを丹念に検《しら》べてから、よくよく注意をしてくれるようにと守衛に頼んだ。どうして知れたものか、アカーキイ・アカーキエウィッチが新調の外套を着て出勤したこと、例の【半纏《はんてん》】はもうどこにも見当たらないことが、たちまち役所じゅうに知れ渡ってしまった。一同は即刻、アカーキイ・アカーキエウィッチの新しい外套を見に守衛室をさしてどっと押しかけた。そして祝辞を述べたり、お世辞を言ったりし始めたので、こちらは初めのうちこそ、にやにや笑っていたが、しまいにはきまりが悪くさえなった。みんなが彼を取り巻いて、新しい外套のために祝杯をあげなければなるまいとか、少なくとも、一夕《いっせき》、彼等のために夜会を催す必要があるとか言い出した時には、アカーキイ・アカーキエウィッチはすっかりまごついてしまって、いったいどうしたらいいのやら、何と返答したものやら、どう言い逃れたものやら、さっぱり見当がつかなかった。数分の後には彼はもうすっかり赧《あか》くなって、これはけっして新調の外套でも何でもなく、ただの古外套なのだと、あくまで無邪気に一同を説き伏せにかかった。そうこうするうちに役人の一人で、副課長を勤めているほどの人物ではあるが、多分、おれはけっして傲慢な人間ではない、それどころか目下《めした》の者とさえ交際しているのだということを示すためであろうが、こんなことを言い出した。「まあ、いいさ、それじゃあ僕が一つアカーキイ・アカーキエウィッチに代って夜会を催すことにするから、どうか今晩、お茶を飲みにやって来て下さい。ちょうどお誂えむきに、今日は僕の命名日《なづけび》でもあるしするから。」言うまでもなく、役人たちは即座に課長補佐に祝辞を述べて、大喜びでその申し出を受け入れた。アカーキイ・アカーキエウィッチは辞退しようとしたが、一同が、それはかえって無作法だの、いやまったく恥だの、不面目だのと言い出したので、もうどうにも断わるに断わりきれなくなってしまった。とはいえ、お蔭で晩にも新しい外套を着て出られるのだと思うと、今度はまたいい気持にもなってきた。この日一日というものは、まるでアカーキイ・アカーキエウィッチにとってはもっとも盛大なお祭りのようであった。こよなく幸福な気分で家へ帰ると、彼は外套を脱いで、もう一度ほれぼれ
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