の名を囁やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おやすみ、おれの別嬪さん! そして世界ぢゆうで一番幸福な夢を御覧! だがどんな夢だつて、おれとお前の明日の目醒めに勝るやうな幸福な夢はなからうよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]彼は女にむかつて十字を切ると、窓を閉めて、こつそりそこを遠ざかつた。かくて数分の後には、村ぢゆうがすつかり眠りに落ちた。ただひとり月のみは相も変らず皓々として、豪華なウクライナの果しなき沙漠のやうな空にいみじくも浮かんでゐる。同じやうに、荘重な息吹《いぶき》が天上にも聞かれ、夜が、神々しい夜が、厳そかに更けて行く。妙なる銀《しろがね》の光りに包まれた地上もまた美しかつた。だが、最早それに見惚れる人の子は一人もなかつた。何もかもが深い睡りにおちてゐた。ただ時をり犬の遠吠えが束の間だけ沈黙《しじま》を破るのみで、酔ひしれたカレーニクはなほも自分の家をさがしながら、寝しづまつた往来を長いあひだうろつき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐた。
[#地から2字上げ]――一八二九年――



底本:「ディカーニカ近郷夜話 前篇」岩波文庫、岩波書店
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