噛みつぶしたやうな顔をしてゐて、あまり口数をきくのを好かなかつた。もう、よほど以前のことであるが、故エカテリーナ女帝陛下がクリミヤへ行幸になつたをり、彼は供奉の一員に選ばれて、二日間その大命を拝し、あまつさへ帝室馬車の馭者台に馭者と並んで同乗する光栄を担つたことがあつた。その時以来、この村長は一層こざかしく勿体さうに首を前屈みにして、長く下へ垂れさがつてねぢれた泥鰌髭を撫でながら、鷹のやうな眼つきで額越しにあたりを見ることを覚えこんだ。またその時以来、人がどんな話をしかけても必らず、自分が女帝陛下に扈従して帝室馬車の馭者台に席を占めた時のことに話頭を持つてゆくことを忘れなかつた。村長はどうかすると聞えぬ振りをすることが好きで、殊に自分が耳を貸したくないやうな話の出た時にさうなのである。村長はしやれた服装《なり》には我慢のならない方で、いつも黒い自家織《うちおり》の羅紗で仕立てた長上衣《スヰートカ》をまとひ、色染めの毛織の帯をしめてゐるが、女帝のクリミヤへ行幸の砌りに青い哥薩克外套を著た以外には、つひぞ彼がほかの服装《なり》をしたところを見た者がない。しかし、そんな頃のことを覚えてゐる者
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