つてゐる。
「もう直きのおつもりですかい?」と、村長は蒸溜人《こして》の方へ向き直つて、欠伸の出かかる口へ急いで呪禁《まじなひ》の十字を切りながら言つた。「その酒蒸溜場《さかこしば》を開きなさるのは?」
「都合さへよければ、この秋ごろから醸造《つく》りはじめられるだらうと思ひますんで。聖母祭にやあ、村長殿が千鳥足でもつて往来に独逸風の輪麺麭《クレンデリ》の形を描かれることは、まづ賭をしてもようがすて。」
 かう言つた時、蒸溜人《こして》の両眼は影をひそめて、その代りに真一文字に左の耳から右の耳まで一筋の横皺が寄り、その胴体は笑ひにゆすぶられて、一瞬のあひだ、彼は煙のたちのぼる煙管《パイプ》を、その愉快さうな唇《くち》から離した。
「どうか、さうあらせたいものぢやて。」と村長が、微笑に似たやうな表情を顔に浮かべながら言つた。「それでも、この節ぢやあ、好い塩梅に、少しは造り酒屋も出来たにやあ出来ただが。むかし、わしが女帝陛下の供奉《おとも》をしてペレヤスラーヴリ街道を通つた時分にやあ、あの、死んだベスボローディコがまだ……」
「なるほど、さういへば想ひ出しますわい! あの頃にやあ、*クレメンチューグから*ロムヌイまでのあひだに、造り酒屋は二軒とはなかつたでがせうが、それが当節ぢやあ……。あの忌々しい独逸人どもが何を発明しをつたか、お聞きなすつたかい? なんでも人の話ではね、今に奴らは、堅気な基督教徒のやうに薪を使はないで、何か怪しげな蒸気でもつて酒を蒸溜《こ》すやうになるつてえことですぜ……。」かう言ひながら、蒸溜人《こして》は感慨ぶかげに卓子の上へ眼を落して、そのうへに載せた自分の両手を眺めた。「いつたい、蒸気《ゆげ》をどうするのか――いや、さつぱり解《げ》せないこつて!」
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クレメンチューグ ポルタワ県下の同名の郡の首都で、ドニェープルに臨んだ河港。穀類、木材の集散地。
ロムヌイ ポルタワ県下の同名の郡の首都、ドニェープルの支流スーラ河に臨み、煙草の産地として有名なところ。
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「なんちふ阿房どもぢやらう、その罰当りの独逸人どもあ!」と、村長が言つた。「畜生ども、ほんとに棒うちを喰らはせて呉れるのに! 蒸気で物が煮えようなんて、つひぞ聞いたこともないて。それぢやあ、ボルシチひと匙口い持つて行つても、若い
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