げ]
鶏の脚で立つた小舎 露西亜の昔噺に出て来る鬼婆の棲家は、森の中に鶏の脚で立つてをることになつてゐる。
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「おぬしは、あの娘を手に入れるために、どんな約束をしたのぢや?……」さう呶鳴るバサウリュークの声が、まるで鉄砲だまのやうにうしろから彼の五体に突きとほつた。妖女《ウェーヂマ》が片足あげて、とんと地面を踏んだ。すると、青い焔が地のなかからたちのぼつて、地下全体がかつと明るくなり、まるで水晶ででも出来てゐるやうに、大地の底にあるものが何もかも、手に取るやうに見え出した。彼等の立つてゐる地面の真下には、櫃や鍋にいれた金貨だの宝石だのが、うづたかく埋蔵されてゐるのだつた。ペトゥローの両の眼は燃えるやうに輝やいて……理智の鏡も曇らされた……。まるで正気を失つたもののやうに彼は短刀を掴んだ。無辜の血汐が彼の両眼にはねかかつた……。悪魔の高笑ひが四方からどつとあがつた。醜悪きはまる化生のものが彼の眼前を群れをなして駈けまはつた。妖女《ウェーヂマ》は首を刎ねられた屍を両手にかかへこんで、狼のやうにその血をすするのだつた……。ペトゥローの頭のなかでは何もかもがぐるぐると※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた! 彼はその場から力の限り逃げだした。彼の眼の前はすべてが真紅の光りにつつまれて見えた。すべての樹々が血を浴びて赫つと燃えながら呻いてゐるやうに思はれた。空も真赤に灼けただれて揺らめいてゐた……。稲妻のやうな火の玉が眼の中できらめいた。ぐつたりと、精も根も尽き果てて彼は自分の荒ら屋へ駈けこむなり、藁束のやうに地面《ぢべた》へぶつ倒れてしまつた。そのまま死のやうな睡魔が彼を捉へてしまつた。
 二日二夜のあひだ、ペトゥローは一度も目を醒さずにぐつすり眠りとほした。三日目になつてやつと夢から醒めた彼は、長いあひだ自分の家の隅々を眺めまはした。何ごとかを思ひ出さうとして躍起になつたが、どうしても思ひ出されない。彼の記憶は、まるで老いぼれた吝ん坊の衣嚢《かくし》と同じで、これつぱかしも絞りだすことが出来ないのぢや。ふと、伸びをした時、彼は足もとで何かザラザラと音がするのを耳にとめた。見れば、金貨の袋が二つもあるではないか。やつと、この時、夢のやうに、自分が何か宝を捜してゐたことと、森の中でただ一人、何か怖ろしい目に会つてゐたことを思ひ出した……。だが、何の代償として、またどういふ手段でそれを手に入れたのか――それはどうしても思ひ出すことが出来なかつた。
 二つの金袋を見ると、コールジュの心は折れた。『ほんにペトゥルーシャはなんちふ変物ぢやらう! おらがあれに目をかけてやらなかつたとでもいふのかい? うちぢや、あれを親身の息子のやうにしとつたでねえか!』などと、老人はまるで歯の浮くやうな出放題をならべ立てたものぢや。ピドールカは、弟のイワーシが通りすがりのジプシイにかどはかされたことを話したがペトゥローはイワーシの顔を思ひだすことさへ出来なかつた。そんなにまで呪はしい化生の物のためにたぶらかされてゐたのぢや。もう何も躊躇することはなかつた。波蘭人には体のいい肘鉄砲を喰はせておいて、さつそく婚礼の支度がととのへられた。白い婚礼麺麭が焼かれたり、布巾《ふきん》や手巾《ハンカチ》がしこたま縫はれたりして、焼酎の樽がころがし出されると、新郎新婦は並んで卓子につき、大きな婚礼麺麭が切られた。四絃琴《バンドゥーラ》や鐃※[#「金+拔のつくり」、第3水準1−93−6]《シンバル》、笛や八絃琴《コーブザ》の楽の音がとどろきわたつて――歓楽がつづいた……。
 むかしの婚礼はとても今時のそれとは比べものにはならなかつた。祖父の叔母がよく話したことぢやが、ただもう、やんややんやといふ騒ぎで! 娘たちは上を金モールで巻いた、青や赤や桃いろのリボンで拵らへた頭飾《かんむり》をかぶり、縫ひめ縫ひめを赤い絹絲でかがつて小さい銀の花形をつけた薄いルバーシュカを身につけ、背の高い踵鉄《そこがね》をうつたモロッコ革の長靴をはいて、まるで雌孔雀のやうに軽快に部屋ぢゆうを踊りまはつた。また新造たちは新造たちで、頂上がすつかり紋金襴で出来て、項《うなじ》のところに小さい切れ目のある(そこから金ピカの頭巾《アチーポック》が覗いてゐたが、それには極々ちひさい、黒い仔羊皮《アストラハン》の角が前と後ろへ一つづつ突き出てゐた)舟型帽《カラーブリク》をかぶり、赤い飾布《クラーパン》のついた上等の古代絹の波蘭婦人服《クントゥーシュ》を著て、勿体らしく両手を脇にかつて、ひとりひとり正しい型のゴパックを踊つた。若者たちはまた、背の高い哥薩克帽をかぶり、薄羅紗の長上衣《スヰートカ》のうへから銀絲で刺繍をした帯をしめ、口に煙管《パイプ》をくはへたまま、女たちにむかつて媚びるや
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