ルジュといふ通称でとほつてゐた哥薩克の家に、※[#始め二重括弧、1−2−54]親無しペトゥロー※[#終わり二重括弧、1−2−55]といふ渾名で呼ばれてゐる作男がひとりゐた。多分、だれ一人その男の両親を知つてゐる者がなかつたので、そんな渾名がつけられたのだらう。もつとも信徒総代の話によれば、その両親は、彼の生まれた翌る年、黒死病《ペスト》で亡くなつたといふのぢやが、わしの祖父の叔母はそれを本当にしないで、一所懸命に、この哀れなペトゥローの身にとつては去年の雪ほどにも用のない肉親を捜し出してやらうとて、いろいろ骨折つたものぢや。彼女の話では、ペトゥローの父親は今、ザポロージェにゐるが、前に土耳古人の捕虜になつて、むごたらしい艱難辛苦を嘗めた末、やうやく宦官の姿に変装して脱走して来たといふのぢや。だが眉の黒い娘つ子や新造たちにとつては、彼の肉親のことなどはどうでもよかつた。彼女たちはひたすら、彼に新調の波蘭服《ジュパーン》を著せ、赤い帯をしめさせ、てつぺんだけが粋に青い仔羊皮《アストラハン》の黒い帽子をかぶらせて、腰に土耳古風のサーベルをつり、片手には鞭を、片手には美しい象眼いりの煙管《パイプ》を持たせたものなら、とてもとても当時の若者といふ若者などは、その足もとへもよりつかれたものではなからうなどと、言ひそやしてゐた。しかし不幸にして、貧しいペトゥローには、天にも晴《はれ》にも掛換のない一枚看板の鼠いろの長上衣《スヰートカ》より他には持ちあはせがなく、それも、気のきいた猶太人の衣嚢《かくし》の中にある金貨の数よりも多く穴があいてゐるといつた代物であつた。だが、それはまだしも大した災難ではなかつた。災難なのは、コールジュ老人に一粒種の娘があつて、それが素敵もない別嬪で、諸君にも恐らくこんなのは、なかなかおいそれとは見つかるものでないと思はれるほどの美人だつたことで。亡き祖父の叔母がよく話したことぢやが――ところで女にとつては、御承知のやうに、差しさはりがあつたら御免なされぢやが、他人《ひと》のことを美人だなどと言ふくらゐなら、いつそ悪魔と接吻でもする方がよつぽど安易《らく》なはずぢやが――その哥薩克娘《カザーチカ》のふくよかな頬が見るからに瑞々《みづみづ》しくて、あのこよなく美しい薔薇いろの罌粟《けし》が神授《めぐみ》の朝露で沐浴《ゆあみ》ををへて鮮やかに燃えながら、きちんと行儀よく枝葉をそろへて、今し昇つたばかりの日輪に向つて美装を誇つてゐる時のやうに、あでやかなら、またその眉は、ちやうど当節の娘たちが、あの、箱をかついで村々を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて来る大露西亜人《モスカーリ》から、十字架につけたり、頸飾にする古銭を通すために買ふ、あの黒紐のやうに匂やかに、あだかもその明眸をさし覗くやうに、なだらかに弧を描き、小夜鳴鳥《ナイチンゲール》の唄声をもらすために造られたかとも思はれるその可憐な口許は、それを見るたんびに当時の若者どもに思はず舌舐ずりをさせたもので、烏羽玉の黒髪は若亜麻《わかあさ》のやうにしなやかに、(その頃はまだ、この辺の娘たちのあひだには、派手な色あひの美しい細リボンを編《く》みこんだ幾つもの小さい編髪にするならはしがなかつたので)房々とした捲毛が、金絲で刺繍をした波蘭婦人服《クントゥーシュ》の上へ、ゆたかに垂れてゐたさうぢや。へつ! このすつかり霜をいただいたわしが脳天《どたま》の古林と、まるで眼の上の瘤みたいに片わきに鎮坐まします山の神の婆あの前ではあるが、こんな娘を思ふ存ぶん接吻することができないほどなら、おお主よ、わしはもう頌歌席でハレルヤを唱へさせて貰ひませんでも結構ぢや。それはさて、かうして若者と娘つ子とが互ひに朝夕顔を見あはせて暮してゐた日には……それがどんな結末になるかは、火を見るより明らかな話で、まだ黎明《しののめ》の頃ほひ、赤長靴の踵鉄《そこがね》が目につけばそこには必らずピドールカが情人のペトゥルーシャと甘いささやきを交はしてゐたわけぢや。しかし、つひぞそれまでコールジュが邪慳なこころを起すやうなことはなかつたが、ある時――これこそ他ならぬ悪魔のそそのかしに違ひないのぢやが――ペトゥルーシャのやつ、碌々あたりに注意もはらはず、あとさきの考へもなしに、家の入口で哥薩克娘《カザーチカ》に出会ひざま、その薔薇色の唇に、いはば無我夢中で接吻したのぢや。ちやうどその時、同じ悪魔めが、ええつ、ほんに畜生め、霊験いやちこな十字架の夢でも見くさるがええ!――あらうことか、あの耄碌親爺に入口の扉を開けさせをつたのぢや。コールジュ老人は戸につかまつて棒だちになつたまま、開いた口も塞がらなかつた。その忌々しい接吻の音で彼の耳はすつかり聾になつてしまつたかとさへ思はれたのぢや。それは、まだ鉄砲も火
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