ディカーニカ近郷夜話 前篇
VECHERA NA HUTORE BLIZ DIKANIKI
ソロチンツイの定期市
SOROCHINSKAYA YARMARKA
ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli
平井肇訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)絢爛《きらびやか》さ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十|留《ルーブリ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+解」、第3水準1−86−22]
*:訳注記号
(底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)麻布《あさ》の*寛袴《シャロワールイ》
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家のなかにゐるのは退屈だ。
ああ、誰か外へつれだしてお呉れ
娘つ子があそび戯れ
若い衆がうろつきまはる
賑かな賑かなところへと!
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――古伝説より――
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一
小露西亜の夏の日の夢心地と、その絢爛《きらびやか》さ! 鳩羽いろをした果しない蒼空が、エロチックな穹窿となつて大地の上に身をかがめ、眼に見えぬ腕に佳人を抱きしめながら、うつつをぬかしてまどろむかとも思はれる、静けさと酷熱の中に燃える日盛りの、この堪へがたい暑さ! 空には散り雲ひとつなく、野づらには人声ひとつ聞えず、万象はさながら寂滅したかの如く、ただ頭上たかく天際にをののく雲雀の唄のみが、銀鈴を振るやうに大気のきざはしを通つて、愛慾に溺れた大地へ伝はり流れるのと、稀れに鴎の叫びか、甲高い鶉の鳴き声が、曠野にこだまするばかり。※[#「木+解」、第3水準1−86−22]の木立はものうげに、無心に、まるで当所《あてど》なきさすらひ人のやうに、高く雲間に聳えたち、まぶしい陽の光りが絵のやうな青葉のかたまりを赫つと炎え立たせると、その下蔭の葉面《はづら》には闇夜のやうな暗影《かげ》が落ちて、ただ強い風のまにまに黄金いろの斑紋がぱらぱらと撒りかかる。恰好のいい向日葵《ひまはり》のいつぱい咲き乱れた菜園の上には、翠玉石《エメラルド》いろ、黄玉石《トッパーズ》いろ、青玉石《サファイヤ》いろ等、色さまざまな、微細な羽虫が翔び交ひ、野づらには灰いろの乾草の堆積《やま》や黄金いろの麦束が、野営を布いたやうに、果しもなく遠近《をちこち》に散らばつてゐる。枝もたわわに実のなつた桜桃《さくらんばう》や、梅や、林檎や、梨。空と、その澄みきつた鏡である河――誇りかに盛りあがつた緑の額縁に嵌まつてゐる河……なんと小露西亜の夏は、情慾と逸楽に充ちあふれてゐることだらう!
ええと、一千八百……一千八百……さうだ、なんでも今から三十年ほど前の、暑い八月の、丁度かうした壮麗な輝やかしい或る夏の日のこと、小都会ソロチンツイの町から十露里ばかり手前の街道筋は、をちこちのあらゆる農村から定期市《ヤールマルカ》を目ざして急ぐ人波で埋まつてゐた。朝まだきから、塩や魚を積んだ荷車の列が蜿蜒として際限もなく続いてゐた。上から乾草をかぶせられた壺の山が、幽閉と暗黒に退屈しきつたとでもいふやうに、もぞもぞと蠢めき、またところどころ、荷車のうへに高く押し立てられた枠《わく》のあひだからは、けばけばしい模様を描いた丼や擂鉢の類が自慢さうに顔をのぞけては、はで好きな連中の物欲しさうな眼差《まなざし》を牽きつけてゐた。道ゆく人々の多くは、さうした高価な品の持主である、背の高い陶器師《すゑものし》が、自分の商品の後ろからのろのろしたあしどりで歩みながら、絶えず、伊達者《だてしや》で蓮葉な陶器どもに、いやがる乾草をかぶせかぶせするのを、羨ましさうに眺めやつた。
一方、少し離れて、麦の袋や苧や麻布や、その他いろんな自家製《うちでき》の品を満載した荷車を、へとへとに疲れた去勢牛に曳かせながら、その後ろから小ざつぱりした麻布《あさ》の襯衣《ルバーシュカ》に、汚れた麻布《あさ》の*寛袴《シャロワールイ》を穿いた持主がのつそりのつそり歩いてゐた。彼は、その浅黒い顔から玉をなして流れ、あまつさへ長い泥鰌髭のさきからぽたぽた滴り落ちる汗を、ものうげな手つきで拭き拭き歩をはこんでゐるが、その髭は、幾千年このかた美醜の別ちなくあらゆる人の子をば招かれもせぬのに訪づれる、あの容赦なき調髪師の手で髪白粉《かみおしろい》をふりかけられてゐた。それと並んで、おとなしさうな、年とつた一頭の牝馬が荷車に繋がれてポカポカ歩いてゆく。行きずりの人、とりわけ、たいていな若者が、この百姓と行き交ふ度ごとに必らず帽子をとつた。だが、それはこの親爺の白毛髭のせゐでもなければ、その勿体ぶつたあしどりのせゐでもない。さうした敬意の払はれる理由が知りたければ、眼を少し上へあげさへすればよい。荷車の上には丸顔の美しい娘がひとり坐つてゐた。黒いなだらかな三日月眉は澄みきつた栗色の眼の上にもたげられ、薔薇いろの唇には屈託のない微笑が浮かび、頭べにまとはれた赤や青のリボンは、長い編髪《くみがみ》や野花の小束と共に、彼女の蠱惑的な頭べの上に、華やかな王冠のやうに落ちついてゐた。何もかもが彼女の心を惹きつけるらしく、あらゆるものが彼女には珍らしく、目あたらしさうで……その美しい二つの眸は絶え間なく、次ぎから次ぎへと馳せうつつた。どうしてまた夢中にならずにゐられよう! 初めての定期市《ヤールマルカ》ゆきなのに! 十八娘の生まれて初めての定期市《ヤールマルカ》ゆきなのに!……しかし、彼女がどんなに父親にせがんで同行を納得させたかは、行き交ふ人々のうち誰ひとり知つてゐる者がない。もつとも父親は、根性まがりの継母さへゐなかつたら、二つ返辞で聴き入れたことだらうが、彼はまるで、永年のあひだこき使はれた挙句のはてに、お払ひ箱になるために、現に曳かれてゆく耄碌馬《まうろくうま》の手綱を自分が掴んでゐると同様に、すつかりその後添の女房の手で尻尾を押へられてしまつてゐたのだ。そのやかましやの女房《かみさん》といふのは……。しかしわれわれはその女房《かみさん》が現在この荷馬車のてつぺんに乗つかつてゐることをつい胴忘れしてゐた。その女房《かみさん》は、ちやうど、貂の毛皮のやうに、色こそ赤いが、一面に植毛の施こされた、しやれた青い毛織の短衣《コフタ》の下に、将棋盤みたいな市松模様の、立派な毛織下着《プラフタ》を着こみ、更紗模様の頭巾帽《アチーポック》をかぶつてゐる。それが彼女のでつぷりした赤ら顔に一種独特のいかつさを添へて、何かかうひどく不気味で異様な風貌に見えたので、誰しも愕ろきの眼を、急いで陽気な娘の顔へと移さずにはゐられなかつた。
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寛袴《シャロワールイ》 土耳古風の寛闊なズボンで、我が国の山袴、かるさんに類するもの。
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この一行の行手には早くも*プショール河が見えだして、まだ遠くから、清涼な河風がもう頬を撫でて、それが堪へがたい酷暑の後でひとしほと身に浸みるやうであつた。無造作にばら撒かれたやうに、草地の上に突つ立つた黒筐柳《くろはこやなぎ》や白樺や白楊などの、明暗の青葉を通して、冷気を帯びた、火のやうな閃光がキラキラ輝やきだすと、美女のやうな流れが白銀《しろがね》の胸廓を燦然と露はして、その上には樹々の青葉が捲毛のやうに艶《いろ》めかしく垂れてゐた。まばゆいばかりに美しい額や、百合の花かとも見まがふ両の肩や、波うつて垂れてゐる亜麻いろの頭髪《かみ》にかざされた大理石のやうな頸をば妬ましげにうつす鏡の前で、恍惚として驕りあがつた放恣な美女が、果《はて》しない気紛れにその衣裳を次ぎ次ぎと取り棄てては著換へるやうに、この河は殆んど年ごとに、四辺の容子を変へ、新らしい水路を選んで、さまざまな目新らしい景色で己れを装ほふのである。幾列にもならんだ磨粉場《こなひきば》の水車が幅の広い河波を掬ひあげては、それを飛沫に砕き、水煙をあげて、苦もなく跳ね飛ばしながら、あたりを聾するばかりの騒音を立ててゐた。われらの馴染みの一行を乗せた荷馬車は、ちやうどこの時、橋に差しかかつて、彼等の眼前には、限りなく麗はしく、さながら無色透明な玻璃板のやうな、雄大な流れが展開したのである。空や、緑と青の森や、人々や、皿小鉢を積んだ荷馬車や、水車場――さうしたすべてのものが逆さまになつて、藍いろの美はしい深淵にうつつて、沈みもせずに、足を空ざまにして立つたり、歩いたりしてゐる。くだんの美人はこの絶景に見とれて、途々根気よく頬ばつてゐた向日葵《ひまはり》の種の殻を吐きだすことも打ち忘れてぼんやりと考へこんでしまつた。と、そのとき、不意に『おんや、娘つ子だよ!』といふ声が彼女の耳を驚ろかした。振りかへつて見ると、橋のうへに一群《ひとむれ》の若者がたたずんでゐて、その中でいちばん垢ぬけのしたみなりで、白い*長上衣《スヰートカ》に、鼠いろの羊毛皮《アストラハン》の帽子をかぶつた若者が、両手を腰につがへたまま傍若無人に、通り過ぎようとする一行を眺めてゐた。ゆくりなくも、その日焦のした、とはいへ愉悦に充ちあふれた顔と、こちらをじつと、見すかさうとでもしてゐさうな、燃えるやうな眼にぶつかると、さつきの声は屹度この人の声だつたなと思つて、彼女ははつと顔を伏せた。『素つ晴らしい娘つ子だぞ!』と、その白い長上衣《スヰートカ》の若者は、娘から眼もはなさずに言葉をつづけた。『彼女《あのこ》を接吻することが出来さへしたら、おれあ身代ありつたけ投げだしたつて構やしねえぞ。だが、前には悪魔が坐つてやがる!』どつといふ笑ひ声が四方から起つた。しかし、この思ひがけない挨拶は、のつそりのつそり歩を進めてゐる亭主の、粧《めか》したてたその配偶《つれあひ》には、あんまり嬉しくなかつた。女房《かみさん》の赤い頬は火のやうに赫つと燃え立つて、取つておきの悪罵がこの不届きな若者の頭から浴せかけられた。
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プショール河 ドニェープルの一支流。
スヰートカ 小露西亜人の用ゐる長上衣で、上から腰に帯を緊める。
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「何だい、この碌でなしの出来そこない野郎め、咽喉でも詰まらせてくたばつてしまやがれ! 汝《てめえ》の親爺のど頭に壺でもぶつかりやあいい。氷に滑つてころびくさるがいいんだ、忌々しい外道めが! 地獄へおちて鬼に髯でも焼かれやあがれ、くそつ!」
「どうだい、あの毒づくことは!」と、若者は女房《かみさん》の顔に眼をみはりながら、思ひがけなく手厳しい矢継ばやの応酬にいささか辟易した形で、「あの海千山千の妖女《ウェーヂマ》の舌は、あんなことを言つて、あれでちつとも痛くはならねえのかなあ!」
「なに、海千山千だと!……」さう言つて、年増の別嬪は喰つてかかつた。「この罰あたりめが! 顔でも洗つて出直して来やあがれ! しやうのない破落戸《ごろつき》野郎め! 汝《てめえ》のお袋を見たことはないが、どうせ碌でなしに違ひない。親爺も碌でなしなら、叔母も碌でなしにきまつてるだ! くそつ、海千山千なんて吐かしやあがつて!……何だい、まだ乳臭い二歳野郎の癖に……。」
その時、荷馬車がちやうど橋を渡りきつてしまつたので、その言葉尻はもう聞き取れなかつたが、若者はそれなり鳧をつけてしまふのが業腹《ごふはら》だつたと見えて、よくも考へないで咄嗟に泥土をひと塊りつかみあげるなり、それを女房《かみさん》のうしろから投げつけた。それがまた思ひがけなく、うまく命中して、新らしい更紗の頭巾帽《アチーポック》がすつかり泥だらけになつたので、無茶な乱暴者たちの哄笑はまたひとしほ大きくなつた。肥つちよのめかしやは赫つといきりたつたが、しかし荷馬車はその時もうよほど遠く距たつてゐたので、女房《かみさん》はその腹癒に罪もない継娘や、のそのそ歩いてゐる亭主に当り散らした。だが亭主の方は、かうした悶著《もんち
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