ら、おいらは犬畜生だと言はれても文句はねえだよ!」
「それぢやあ、なんだつてお前さんは、急に顔いろを変へたりしただね?」と、お客の一人で、誰よりも頭だけぐらゐづぬけて背が高くて、いつも自分を勇者に見せよう見せようと心がけてゐる男が叫び出した。
「なに、おいらが?……勝手にしろい! 何を寐とぼけてゐるだ?」
 客たちはにやりと笑つた。口達者な勇者の顔にも北叟笑みが浮かんだ。
「なあに、この人だつて、今はもう青い顔なんぞするもんか!」と、他の一人が混ぜつかへした。「罌粟《けし》の花みてえな真紅な頬ぺたをしてるでねえか。これぢやあこの人の名前は、ツイブーリャ([#ここから割り注]玉葱[#ここで割り注終わり])ではなくて、ブーリャク([#ここから割り注]赤蕪[#ここで割り注終わり])か、それとも、こねえに人を嚇かしやあがつた、あの※[#始め二重括弧、1−2−54]赤い長上衣《スヰートカ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]とでも言つた方がよかんべいに。」
 水筒が卓子の上をひとまはりすると、お客一同は前にもましてひときは陽気になつた。この時、もう疾うから、その※[#始め二重括弧、1−2−54]赤い長上衣《スヰートカ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]のことで気をもみとほしで、束の間もその穿鑿ずきな心に落ちつきの得られなかつたチェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークが、教父《クーム》のそばへにじり寄つた。
「後生だからひとつ聴かせてくんなよ、兄弟! おらがいくら頼んでも、その忌々しい※[#始め二重括弧、1−2−54]長上衣《スヰートカ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]の由来を聞かせてくれねえんだよ。」
「おおさのう! どうもその話を、よる夜なか話すのあ、ちつとべえ具合がよくねえだが、それでもお前や皆の衆の慰みになるちふことなら、(かう言ひながら、彼はお客の方へ向きなほつて)それにお客人たちも、どうやらお前《めえ》とおなじやうに、その妖怪《ばけもの》のはなしを聴きたがつてござるやうでもあるだから、ぢやあ、構ふことはねえや。ひとつ聴きなされ、かうなんだよ!」
 そこで彼はちよつと肩を掻いて、着物の裾で顔を拭いてから、両手を卓子の上へのせて、やをら語りだした。
「何でもある時のこと、どういふ罪でか、そこんとこあ、からつきし分らねえだが、一匹の悪魔めが焦熱地獄からお払ひ箱になつたちふだのう……。」
「馬鹿なことを、兄弟!」と、チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークがそれを遮ぎつた。「どうしてそねえなことが出来るだよ、悪魔を地獄から追んだすなんてことがさ?」
「どうもかうもねえだよ、教父《とつ》つあん? 追んだしたものあ追ん出しただ、百姓が家《うち》んなかから犬を追んだすとおんなじによ。おほかたその悪魔の野郎は、なんぞ善いことをしようつてな出来心を起しをつたのかもしんねえだよ、それで出て行けつちふことになつたのぢやらうのう。ところがその可哀さうな悪魔にやあ、どうにも地獄が恋しうて恋しうて、首でも縊りかねねえほどふさぎこんでしまつただよ。だが、どうにもしやうがねえだ! そこで憂さばらしに酒を喰《くら》ひはじめをつたものさ。そうら、お前も見た、あの山蔭の納屋さ、今だにあの傍《わき》を通るにやあ、あらたかな十字架で、前もつて魔よけをしてからでなきやあ、誰ひとり近よる者もねえ、あの納屋を棲家にしをつてな、その悪魔の野郎め、若えもののなかにだつて滅多にやねえやうな、えれえ放蕩をおつぱじめたものだよ。もうなんぞといへば、朝から晩まで酒場に神輿《みこし》を据ゑてゐくさつたちふことだ!……」
 ここでまたしても、むつかしやのチェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークが語り手を遮ぎつた。
「兄弟、阿房なことを言ふもんでねえだ! 悪魔を酒場のなかへ入れる馬鹿が何処の国にあるだ? 都合のいいことにやあね、悪魔の手足にはちやんと鈎爪がついてるだよ、それに頭にやあ角が生えてるでねえか。」
「ところが、どうして、そこに抜《ぬか》りはねえつてことよ、ちやんと奴さん帽子をかぶり、手袋をはめてゐくさつただもの。どうして見わけがつくもんけえ! 飲んだの飲まねえのといつて、たうとうしめえにやあ、持つてゐただけ、きれいさつぱりと、残らずはたいてしまやあがつただよ。長げえあひだ信用しとつた酒場の亭主も、やがてのことに信用しなくなつてのう。とどのつまり悪魔の奴め、自分の身に著けてゐた赤い長上衣《スヰートカ》をば、せいぜい値段の三が一そこそこで、その当時ソロチンツイの定期市に酒場を出してゐた猶太人のとこへ飲代《のみしろ》の抵当《かた》におくやうな羽目になつただよ。抵当《かた》において、さて猶太人に向つて、※[#始め二重括弧、1−2−54]いいかえ猶太《ジュウ》、
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