場所ぢやあ、飢《かつ》ゑた*モスカーリから搾り出すほどの儲けもあるこつてねえだて。」と、額に瘤のある男が意味ありげに言つた。
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モスカーリ 小露西亜人が大露西亜人のことを侮蔑的によぶ呼称。
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「悪魔の手つちふと、それあいつたいなんだね?」さう縞の寛袴《シャロワールイ》を穿いた男が聞き咎めた。
「世間でよりより噂さにのぼつてることを聞かねえだかね?」と、額に瘤のある男がじろりと相手の顔へ不機嫌さうな流※[#「目+丐」、40−2]《ながしめ》をくれながら、つづけた。
「はあて!」
「はあてだと、まつたくそれこそ、はあてだて! ちえつ、あの委員の畜生めが、旦那衆のうちで梅酒を呑みくさつた後で口を拭くことも出来なくなりやあがればいいんだ、こねえな、金輪際、小麦ひとつぶ捌けつこねえ、忌々しい土地を市場にきめやあがつて。そうら、あの壊れかかつた納屋が見えるだろ? ほら、あすこの山の麓《ねき》のさ。(茲で、ものずきな、くだんの美人の父親は、まるで注意のかたまりにでもなつたやうに、一層間近く二人のそばへにじり寄つた。)あの納屋のなかで、時々、悪魔がわるさをしをるので、一度だつてここの定期市《ヤールマルカ》に災難がなくて済んだためしがねえのさ。昨夜《ゆんべ》おそく、郡書記が通りすがりに、ひよいと見るてえと、空気窓《かざまど》から豚の鼻づらが戸外《そと》をのぞいて、ゲエゲエ呻つたちふだよ。それで奴さん、頭から冷水でもぶつかけられたやうに、ぞうつとしたちふこつた。またしても、あの※[#始め二重括弧、1−2−54]赤い長上衣《スヰートカ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]がとびだすに違《ちげ》えねえだよ!」
「その※[#始め二重括弧、1−2−54]赤い長上衣《スヰートカ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]つてえなあ、いつたいなんだね?」
ここで、われらの注意ぶかい聴き手の髪の毛は逆立つた。ぎよつとして彼が後ろを振りかへると、自分の娘が一人の若者と互ひに抱きあふやうにして、この世の中にどんな長上衣《スヰートカ》があらうと、てんでそんなもののことは念頭にもおかず、何か恋のささやきを交はしながら、静かにたたずんでゐた。それを見ると親爺は恐怖の念も忘れて、又もとの暢気さに立ちかへつた。
「おやおや、おい、若えの! お前《めえ》よつぽど、じやらつきの名人らしいな! おいらなんざあ、婚礼のあと四日目になつて、やつと、死んだ嬶あのフヴェーシカを抱きよせることが出来たもんだ、それも、介添役の教父《クーム》が口ぞへをして呉れたればこそだ。」
若者は即座に、愛人の父親を御しやすしと見てとると、胸中ひそかに、如何にして彼を懐柔すべきかについて、思案を凝らしはじめた。
「お父《とつ》つあん、お前《めえ》さんはおいらを知りなさるめえが、おいらはひと目でお前《めえ》さんがわかつただよ。」
「それあ、わかりもしただらうがね。」
「なんなら名前から渾名《あだな》から、何から何まで、ひとつ言つて見せようか。お前《めえ》さんの名前はソローピイ・チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークつていひなさるんだらう。」
「うん、そのソローピイ・チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークはおらだよ。」
「まあ、よつく見ておくれよ、このおいらが分らねえのかなあ?」
「うんにや、どうも見憶えがねえだよ。さう言つちやあなんだが、生涯のあひだに会つて来た人間の面相を、いちいち憶えてなんぞゐられるこつてねえからなあ!」
「しやうがねえなあ、ゴロプペンコの忰を憶えてをつて貰へねえやうぢやあ!」
「そんなら、お前《めえ》は、あのオフリームの息子けえ?」
「でなくつて誰だといひなさるだね? 悪魔ででもなきやあ、その当人にきまつてらあな。」
そこで、ふたりは帽子をかなぐりすてて、接吻をしはじめたが、われらのゴロプペンコの忰は早速その場でこの新らしい友を攻め落さうと決心した。
「ところで、ソローピイのお父《とつ》つあん、そうらね、このとほり、おいらとお前さんの娘さんとあ、お互ひに好いた同士になつて、もう一生涯、離れようにも離れられねえ仲になつちやつたんだがね。」
「そいぢやあ、何かい、パラースカ、」と、笑ひながら娘の方へ向きなほつて、チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークが言つた。「ほんとに、もう何かい、その、なんだ……よく言ふ、ひとつ草を喰《は》まうつちふやつか! どうぢや? 手を拍つことにするだか? うん、よかつぺえ、それぢやあ、ほやほやの花聟どん、お祝ひに一杯やらかすことにすべいか!」
そこで三人は打ちそろつて、名の通つた市場の料理店へ入つて行つた――それは猶太女の出してゐる天幕店で、そこにはいろんな形の罎に入
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